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2015年6月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.6.7  使徒言行録2:37-47 「食の時を味わう」                 

◆ 昨年4月20日から9月まで、朝日新聞で夏目漱石の小説「こころ」が連載されました。この小説は、主人公の「先生」と、先生を慕う「私」との会話で物語が展開します。先生があるとき、私に家族のこと、兄妹のことなどを聞いたのち、「みんな善い人ですか」とたずねます。「別に悪い人間というほどのものもいないようです。たいてい田舎者ですから」と答えると、「君は今、君の親戚なぞの中に、これといって悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にいるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」と追求される場面が出てきます。漱石はこの作品で「人はいざというとき悪人になる」と語ったのです。

◆ 映画監督で作家でもある西川美和さんが、「心」が連載されていた時に朝日新聞に「漱石と私」というリレーエッセイの書き手の一人として次のように書いておられました。「『こころ』や『それから』が今も全く古びていないことに私は恐ろしさを感じます。これから百年後も人間の悩み方は変わらないのではないか。この葛藤の中でずっと生きていくしかないのかと思い、ぞっとするのです。」

◆ 漱石がこの作品を通して問いかけたことは、聖書的な表現で言えば「人間の罪」の問題です。パウロもローマの信徒への手紙7章7節で次のように記しています。「わたしは自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。」 この言葉は厳しい言葉ですが、さまざまな人がこの言葉に出会って、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしてしまう」自分と向き合う痛さを味わい、しかしそうすることで心の深みに届く慰めを得たのではないか。私たちにとって本当のことは、はじめ辛く、次に優しさとなって、安堵の思いを届けてくれる、そのような不思議を宿していると思っています。おそらくそのことをペトロは38節で語ったのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

◆ 今日の箇所は、先週に引き続き、ペンテコステの出来事が起こったその日にペトロがユダヤ人たちにイエスの十字架の死と復活について語った説教の後半部です。ペトロはイエスに「あなたこそ神の子です」と告白し、「どんなことがあってもついて行く」と言っておきながら、その信頼を裏切り、3度も「わたしはイエスのことなど知らない」と言ってしまいました。自分を守り、自分の都合しか考えない。だらしのない、いくじのない男、情けない人物、それがペトロです。そのペトロがユダヤ人たちに語りかけています。「イスラエルの人たち、あなた方がイエスを十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを・・・・復活させられました。」と人々に語りかけたのです。40節には「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証をし」たと書かれています。証しするという言葉は「殉教する」という意味でもあります。我が身の安全のためにイエスを裏切ったペトロが、今、自分の命を懸けてイエスのことを語っている。これはペテロ自身の力や決意ではなく、何か大きくて、決定的な力が働いているとしか言いようがないことです。ユダヤの人々にイエスのことを語るペトロは、イエスを十字架につけた張本人は自分だと思っていたはずです。その彼が自らの罪の告白を含んで、命を賭けて語った証しは、聞く人々の心の深みに届くものであっただろうと思います。そして聞いていた人々も、イエスを十字架に架けて殺してしまったことを、深く嘆き、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。そして思わず口をついて出たのが「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」という言葉であったのです。

◆ 「わたしたちはどうしたらよいのですか」といくら呟いても、自分たちの犯した過ちは消えません。柱に釘を打ち込んでしまった。その釘を抜くことは出来ます。しかし釘あとは残ります。同じように、イエスを十字架に架けて殺したという事実は消えません。よみがえったキリストの体から手のひらの釘あとも、脇腹の槍のあとも消えてはいませんでした。イエスを十字架につけたことは夢ではなく、事実です。だから人は呟くのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか。」

◆ この人々のつぶやきにペトロはどう答えたのか。それが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物としての聖霊を受ける。」です。罪の赦しのための洗礼とルカは述べています。「罪を赦される」ということは聞き慣れた、またよく口にする表現ですので、スッと通り過ぎてしまいがちなのですが、このことはしかし丁寧に受け止めておく必要があることです。赦すというのは無いことにするとか、消すということではありません。よみがえったキリストの手のひらの釘のあとが消えないように、犯した罪は消えません。イエスの十字架の出来事は無かったことにする事は出来ません。みんなでよってたかってイエスを十字架につけたことは消すことの出来ない事実です。赦されるということは、罪を持ったまま、罪ある者のまま受け入れられる、愛されるということです。そして洗礼とは、罪を消してその人を全く罪人でなくすしるしではありません。罪人として、罪をもったまま、神に受け入れられ、愛される者であることを確認することです。
 自分の愚かさや傲慢のために、友を傷つけてしまった時に、その友から「そのことはなかったことにしてあげよう」とか「そのことはもう帳消しにしてあげよう」と言われたらどうでしょうか。それではわたしたちの気持ちは晴れないのです。それよりも、「お前はしょうがないなー。でも、そんなお前とやっぱり友だちでいたいよ」と言われた時、つまりこのような自分の姿のまま受け入れられた時に、私たちは本当にゆるされたという思いになるのではないでしょうか。聖書が語っている神は、取り返しのつかないような罪を犯す私たちに対しても「しょうがない奴だな。でもあなた達を愛しているよ」と語る神なのです。

◆ ペンテコステの出来事を体験して、この神の決意を身にしみて味わった弟子たちの中に満ちて行ったものが、具体的に見える姿となって現れたことを今日の箇所は伝えてくれています。44節以下です。「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。深い赦しを味わうとき、その体験は人を揺さぶり希望を抱いて立ち上がらせる、そのことを示したのがペンテコステに起こった出来事であったことをルカはこの具体的な記述によって伝えたかったのだと思います。「これから百年後も人間の悩み方は変わらないのではないか。この葛藤の中でずっと生きていくしかないのかと思い、ぞっとするのです」ということから人を深く解放し自由にする、それが私たちに告げられた神の御心なのです。

2015年6月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年6月21 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第5主日
説 教:「手引してくれる人」
牧師 髙田 太
聖 書:使徒言行録
  8章26~38節(新約p.228)
招 詞:エゼキエル書34章11-12節
讃美歌:25、148、356、452、91(1番)
交読詩編:23(p.25上段)

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