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2015年3月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

015年3月22日(日)午前10時30分
受難節第5主日 
説 教:「裏切りの報酬」
 牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
20章9~19節(新約p.149)
招 詞:ヘブライ人への手紙5章7-8節
讃美歌:28、19、442、304、91(1番)
交読詩編:54(p.58下段)

2015年3月8日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2015.3.8  ルカによる福音書9:18-27 「あなたが背負うもの」           

◆ イエスは、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺されることを弟子たちに語りました。これはイエスが弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねたことをきっかけに弟子たちとイエスとの間に交わされたやりとりを受けて、イエスが語ったことでした。「尋ねる」と訳されている言葉は、何気なく尋ねたというのではなく、もっと強い意味あいがこめられています。つまり、イエスはここで、自分から身を乗り出すようにして尋ねた、ということなのです。それはイエスも人の評判が気になっていたからではなく、人々が、そして弟子たちが「救い主」のことをどう理解しているのか、どのように受けとめているのか、を確認することが大切なことであったからです。

◆ イエスの時代のユダヤの人々は、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる救い主が姿を表すのを待っていました。イエスだけでなく、それまでも人々の注目を集める人物が登場すると、いよいよ救い主が姿を現したのではないかと噂してきたと思われます。イエスに対しても同様の期待が集まり始めていたのです。その期待が「洗礼者ヨハネの再来だ」「エリヤが再びやって来たのだ」「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」といった噂に現れていました。けれどもこれらは、いずれも以前、あるいは昔存在した人たちが再来するということでしかありません。

◆ そこでイエスは弟子たち自身に尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」弟子たちを代表してペトロが答えます。「神からのメシア」です。
「神からのメシアです」というのは大変興味深い翻訳です。原文では「神のキリスト(クリストン・トゥ・テウー)」となっています。メシアはヘブライ語で救い主、クリストはギリシャ語で救い主という同じ意味ですから、この箇所は原文に即して「神のキリスト」と訳したらいいはずなのに、あえて「神のメシア」と訳していることになります。それはここでペトロが弟子たちを代表して、イエスは「神のキリスト」ですと答えている、その場合の「キリスト」と、イエス・キリスト、すなわち十字架にかけられ息絶えて、墓に葬られ、そして3日目に復活したイエスをキリストだと告白する場合のキリストとは、意味が違うということを表すために、ペトロの答えを「神からのメシア」と訳したのではないかと思います。メシアという言葉は、ユダヤの人々の昔からの理解がしみ込んでいる言葉だからです。ユダヤの人々が期待し、思い描いていたのは、王であり、預言者であり、祭司でもある、それらはユダヤ社会を支配する力を表しますが、その三つの力を併せ持って、いかなる政治的権力にも立ち向かうことができて、自分たちを解放してくれる、そういう救い主がやってくる、登場するということを人々は期待していました。そのような意味での救い主を表すのが「メシア」という言葉でした。ペトロがここで、あなたこそ「神からのメシアです」と言ったのは、「そのようにわたしたちが待っていたメシアがあなたです」という意味です。

◆ しかしそれは十字架のイエスを救い主・キリストだと告白する場合のキリストとは全く意味あいが違っています。だからイエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排除されて殺され、三日目に復活することになっている」と語ったのです。そのような生き方をするのが、「神のキリスト」なのだとイエスは弟子たちに語るのです。

◆ そしてそのようなわたしに、「ついて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」イエスは語っています。自分を捨て、自分の十字架を背負い、イエスのために命を失う、とは実にラディカルな言葉です。十字架を背負うとはどういうことか。私たちが連想するのは殉教するということ、あるいはゴルゴタに向かう道を自らがかけられる十字架を背負って、何度も鞭打たれながら歩むイエスではないでしょうか。自分の十字架を背負う、とは私たちもそのような最後を覚悟してわたしに従ってくる覚悟があるか、とイエスは問うたということなのでしょうか。その厳しいイメージのゆえに、わたしたちはあまり踏み込まずに、そしてあまり考えないようにしてこの箇所はさっと読むだけで早く通り過ぎてしまおう、そんな気持ちにさせられてきたことはなかったでしょうか。

◆ 作家の有川浩さんの作品に高知県観光振興部のおもてなし課をモデルにした「県庁おもてなし課」遠という小説があります。主人公は高知県庁に入庁して3年目の職員・掛水史貴です。発足したばかりの「おもてなし課」で、自分は何をすればいいのか戸惑っていた掛水が、どうしたら高知県を観光という観点からアピール出来るかを考えます。いろいろな人と出会い、地元にずっとあったものの価値を発見しなおし、それらをネットワークでつないで県の観光を掘り起こして行くというアイデアを得て行きます。問題はどうしたら注目を集めるアピールが出来るかでした。高知にあるものを並べてみるのですが、インパクトに欠ける。高知にないものを数えた方が簡単だということになり、ホワイトボードに「ないもの」がつぎつぎに書き付けられていきました。「新幹線はない。地下鉄はない。モノレールも走っていない。ジェットコースターがない。スケートリンクがない。ディズニーランドもUSJもない。フードテーマパークもない。Jリーグチームがない。ドーム球場がない。プロ野球公式戦のナイターができん。寄席がない。2千人以上の屋内コンサートができん。中華街はない。地下街はない。温泉街もない。そして金もない。」そこまできて「何だか不幸自慢に近いノリになってきたけれど、どういう締めにするか」ということになりました。そのとき掛水に閃いたことがありました。「締めは『けんど何々がある』ってしたどうですか」と声を上げます。観光って「光を観る」と書く。だからないないづくしを並べた最後に「けんど、光はある!」で締めの言葉とする。この提案は共感を呼びました。

◆ わたしは思うのです。「日々、自分の十字架を背負って、イエスに従う」というのはこういうことではないのか。「自分の十字架を背負って」というのは確かに殉教するということをイメージさせます。しかしイエスは「「日々」と言っています。毎日十字架を背負うと言っています。殉教が毎日起こるということではないでしょう。十字架とは何も持たないことを意味していると思います。イエスに従うと生き方とは、従う者にそれにふさわしい力や能力や資格を持っているかどうかということで出来るか出来ないかが決まるのではないということです。イエスは弟子たちを派遣する時にこう言いました。「旅には何も持っていってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(9:3)何も持っていくなと言うのです。

◆ 私たちには何もない。けれどイエスという光がある。私たちの傍にいつもいてくださる、私たちをけっして見捨てないイエスがおられる、イエスという光がある。だから訪れて来てほしい、観に来てほしい、わたしに従って来てほしい。それが「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということの意味なのではないか、そう思うのです。

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