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2015年3月1日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.3.1  ルカによる福音書11:14-26  「神の指使い」             

◆ 本日の聖書の箇所には「ベルゼブル論争」という小見出しがつけられています。この論争は、ある日イエスが口を利けなくする悪霊を追い出して、口の利けなかった人がものを言い始めたということが発端となって、人々とイエスとの間に起こった論争のことです。この出来事を見ていた群衆は驚嘆したとありますが、その驚き方の中身は一様ではありませんでした。口の利けなかった人がものを言い始めたということをどう解釈するかという点で人々の見方は分かれました。「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者もいれば、イエスをさらに試そうとして天からのしるしを見せてほしいという者もいました。
◆ 病気を癒すイエスに対して、横やりを入れる。当時、社会的な意味で人を徹底的に抹殺するためには、「この人は悪霊の仲間だ」というレッテルを張ることが早道でした。それが抹殺ための一番効果的な方法でした。それに対して、イエスは挑戦的とも言える論争を展開します。「内輪で争えば、どんな国も荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪でもめれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」もしもわたしが、悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているということになれば、わたしは悪霊の国の中に内乱を起こした反逆者ということになる。そんなことがありえるかとイエスは切り込みます。人がなす営みは、決して自己完結できない。私たちが手にする結果は、外から働く力が伴ってもたらされたものなのです。そのことを受け止めること、イエスが譲り得ないこととして示すのはその神のラインです。
◆ 「あの男は悪霊/ベルゼブルに取りつかれている」と言ってイエスを非難する人たちの立ち位置は、神の働く領域を否定し排除して,自分たちの判断を優先させ、関係をはかろうとする生き方を象徴しているのではないかと思いました。ルカ福音書17:20-21で「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とイエスは語っています。人と人との間、そこに思いを注ぐ。それは神が働く場を、いろいろな人との関係において留意する、用意するということです。人の業はどんなに優れていても、そこに人の思いだけではなくて、外からの力を取り次ぎ、重ねて働きをなして行く、そのことこそ私たちが忘れてはならないことであり、イエスと出会い、神を知って生きることの具体的な形なのだと思います。神の働く場をどんな人との間にも用意し,そこに神を迎えながら関係を作り、いろいろなことに一緒に取り組んで行く。そこにこそ信仰を持って生きる者の独自性があり、豊かさがあるのです。人と人との関係の凝りを解きほぐすためには、神の働く領域をお互いの間に備えることを聖書は促すのです。
◆ 有川浩さんの作品に「三匹のおっさん」という小説があります。剣道の道場を開いていた清一、柔道をする重雄、機械いじりが特技の則夫といういずれも60歳を越えたおっさん3人が、あることがきっかけでタッグを組んで、ご近所や地域のもめ事に関わり解決して行くというストーリーの小説です。その中のエピソードの一つに、小学生時代、清一の道場に通っていた工藤昴という中学生が、相談事があってやってきたことことから、三匹のおっさんが関わることになった事件があります。昴が通っている中学校で飼育しているマガモ二つがいに夏休み、ひなが生まれたのですが、その親ガモの1羽がナイフで傷付けられ脚を引きずっているのを、飼育当番に当たっていた昴と同級生の新垣美和が見つけました。誰がそんなことをしたのか、犯人探しをしていくという展開で話は進みます。マガモをナイフで傷付けたのは3年生の数人の生徒たちであることが判明します。いずれも成績優秀な特進クラスに在籍し、教師たちにも高く評価されていた生徒たちでした。「学校側の期待されすぎたストレス」がマガモを傷つけた理由でした。学校側は、その生徒たちの将来のため、受験に影響が出るからと、この事件をうやむやにして処理してしまいました。学校のそのような対応を見て、おっさんのひとり重雄が昴と美和に「ブランドガキになるなよ」と言います。
◆ その言葉は昴と美和のそれぞれの心を揺さぶりました。美和は学生の時にイジメをしたことがあると昴に話し出しました。「リーダーの子がいて、私その子のグループだったから無視したり、悪口言ったり、いっぱいした。そのときは、みんなでその子いじめるのも楽しいくらいだったけれど、その子は中学に上がるとき、私立で全寮制のすっごく遠くの学校に行ったの。それでときどきスーパーとかでその子のお母さんに会うの。そしたらすっごいにらまれて。そっかと今さら気がついた。その子の家族は、みんな私たちのせいでその子が遠くの学校に行かなきゃいけなくなったって思ってるんだなって。もしその子が自殺とかしたら、私、カモを虐待した三年生と一緒だったよね。」
 昴も実はと言って、「小学生のころ、すごく人気のカードゲームがあって、カード集めるのに夢中になって、駄菓子屋でみんなで万引きした、何度もした」と話しました。そして二人は、今日家に帰ったら、お互いの親に懺悔しようよ、と言って分かれます。
 翌日、昴はたんこぶでデコボコになった頭をさすりながら美和に報告します。「すっごい怒られた。父さんに頭ぼこぼこに殴られた。今までの分、全部弁償しろって。お金は立て替えてやるけど、小遣いから天引きで返してもらうって。」 美和も「私もすっごい怒られた」と話し出しました。「今夏休みだから、その子も家に帰ってきているはずだから、謝りに行きたいって言ったら、お父さんが、行きたいなら自分で電話して行っていいかどうか、その子に訊けって。それで思い切って電話したら、けちょんけちょんだった。お母さんが出て、誰のせいでうちの娘が家族とは離れて遠くの学校に一人ぼっちで暮らしていると思ってるのって。娘もイジメグループの顔なんか見たくもない言ってるって。せっかくの夏休みの家族の団欒を楽しんでるのに、不快な顔を見せないでちょうだいって。私、ごめんなさいって言いながらボロボロ泣いちゃって。電話終わったら、お父さんが 自分が改心したからって、都合よく許してもらえるなんて思うなって・・・・。お父さん、最初からそうなることが分かってたみたい。お前は謝っても許してもらえないことをしたんだって。でも、今さらでも、お父さんとお母さんに叱らようとしたことは、お前にとって無駄じゃないって。」
◆ 謝っても許してもらえないことをした。これは神の前に立つ私たちすべてに当てはまって行くことだと思います。誰一人、神に対してごめんなさいと言って許してもらえるという存在では本来ないのだ、ということだと思います。ベルゼブルの頭だからもめ事を収めたんだろうと言って、自分の枠の中で完結できますと、神の前で言うことができる者はいないのだ、ということだと思います。「今さらであったとしてもお父さんとお母さんに叱られようとしたことは、お前にとって無駄じゃない。」このお父さんとお母さんに叱られようとすることを、イエスは自ら引き受け、悲惨な十字架にかけられて命を落とされた。聖書はそのことを私たちに語っているのです。今私たちは受難節を歩んでいますが、私たちは何者であるのか、イエスが私たちに代わって叱られて下さった。そのことの途方もなさ、とんでもなさに向き合って今の時を歩まなければならない一人一人なのだと思うのです。

2015年3月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年3月15日(日)午前10時30分
受難節第4主日 
説 教:「その声を聞いたなら」
 牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
 9章28~36節(新約p.123)
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅱ
3章4-6節
讃美歌:27、205、287、285、91(1番)
交読詩編:29(p.30上段)

※礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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