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2015年2月1日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年2月1日(日)午前10時30分
降誕節第6主日 
説 教:「届けられる言葉」
         牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
 8章4~15節(新約p.118)
招 詞:箴言3章6~8節
讃美歌:24、51、58、196、524、91(1番)
    第1編511(1番)
交読詩編:147;1-11(p.160上段)

※次週の礼拝は同志社栄光館ファウラーチャペルにて行います。
※次週は聖餐式を行います。
※どなたでもお越しください。

2015年1月18日(日)の説教要旨 [説教要旨]

先週の説教要旨 2015.1.18   ルカによる福音書5:1-11 「漁師の仕事」           

◆ 阪神・神戸・淡路を震度7の激震が襲ってから丸20年、昨日は被災地に20度目の1月17日が巡ってきました。わたしたち家族4人もあの日、神戸の東灘区住吉でこの地震に遭いました。そして翌年の10月はじめ、大津教会に転任するまでの1年10ヶ月を被災地のただ中で暮らしました。今朝は、本日の聖書日課である聖書箇所から離れてしまうのですが、20年前のあの時を振り返って、今思うことを語ることをお許しいただきたいと思います。

◆ 「地の基は震え動く」とイザヤ書(24:18)にありますが、あの激震は文字通り「地の基が震え動き」全てを突き崩し、人の暮らしを根底から引き裂きました。下から突き上げられ、次に下へ引き落とされ、壁は裂け、床は落ち、家具は振り回されたようにきしみ、飛び、倒れ、その中で人は何も出来ず、ただ激震に打たれるしかなかった。そのことがもたらしたものは、かけがえのない多くの命が奪い去られ、住む場所も突き崩され、もぎ取られていく慟哭でした。身も心も引き裂かれていく痛みでした。この地震はごく限られた地域に極限の被害をもたらしました。

◆ 死の意味を問う・・・・6434人の方が分かっているだけであの震災で命を失いました。 愛する者を亡くして、その死を忘れることが出来ないまま、たくさんの人たちがこの20年を生きてこられました。死にあずかる、死を覚える、それはさまざまな形があるのだと思います。震災から20年。記憶の風化が問われています。神戸出身の画家とみさわ・かよのさんが次のように書いておられました。
「風化とは、なんだろう。忘れ去られること、ではないと思う。風化させまいとは、どういうことだろう。忘れるなと叫ぶこと、ではないと思う。 天災であれ、人災であれ、それがどんなに大きなできごとであっても、時とともに人々の記憶は薄れてゆく。それは仕方のないことだ。誰しも、毎日の暮らしがある。当事者でさえ、そのことばかりを考えてはおれない。忘れてもいい、普段の生活の中では。ただし、心しておきたい。私達の間に、共有できるものがなくなることが風化なのだ、と。他人を攻撃するその言葉が、震災を風化させるのだ、と。」・・・・記憶の風化を押しとどめるものは人が生きてきた具体的な暮らしとそれが突き崩され、あるいは家族を亡くした無念さ、痛みへの想像力だと思います。

◆ 兵庫教区では毎年<大地震子ども追悼コンサート ぼくのこと まちのこと きみのこと>が震災から10年にわたって開催されました。コンサートで配られたプログラムにはあの地震で亡くなった514名の未来に夢をもっていた子どもたち一人一人の名前と年齢と住所と、そして亡くなったときに属していた学校や幼稚園の名が記されていました。それは私たちに子供たちそれぞれの暮らしを思い浮かべさせるのです。そしてもしこの514名の中の一人が自分の子どもだったら、自分の孫であったら、と考えてみる。記憶の風化や形骸化は名を告げるという具体性、その人がどのように生きていたのか、そのことを名前、年齢、通っていた学校名や園の名、住んでいた場所、そうしたひとつひとつの具体的なことによって思いが呼び覚まされ、それによって初めて押しとどめることが出来るのだと思うのです。

◆ 福音に生きる、そして福音を伝えるということも同じなのだと思いました。福音に生きるということ、あるいは福音が伝わることと、それはわたしたち一人一人が名を名乗って生きることと結びついているのです。福音あるいは真理、もしくは神の黙示あるいは神の啓示は宅急便で運ばれる荷物のように、コンポしたそのままの形で伝わるものではないということです。宅急便の荷物が運ばれるときに運送会社の担当者の人格が荷物に影響することなどありません。しかし福音は逆です。無色透明な人物がただ荷物を運ぶように伝えるという仕方では福音は、伝えられないものなのです。そうではなくてその人が福音をどう感じ、どう受けとめ、どのように生かされてきたのか、その自らの体験を通して語ることで生きてくる、福音が福音として伝わるのです。福音とはそういう質を持っているのです。言い換えますと福音は人に名を名乗らせるのです。自分はどういう人間か、どのように生きて来たのか、どんな出会いの体験を持ち、何を感じ、何を思ったのか、傷ついたこと、苦しんだこと、辛かったこと、思い悩んだこと、喜んだこと、嬉しかったこと、幸せだったこと、ひとりの人の名前にはその体験のすべてがにじみ、刻み込まれて行きます。一人の人間の名前はそのような人生の深さを思うことを私たちに促すのです。

◆ 1995年1月17日午前5時46分、あの激しい揺れはどれくらい続いたでしょうか。体が自分の意志とは全く関係なく激しく揺さぶられる。その揺れが一旦おさまったとき、しばらくシーンとした静寂の時がありました。今思えば、不思議な瞬間でした。そして堰を切ったように、人の名を呼ぶ声があちこちから聞こえてきました。おそらく、あの朝ほど多くの人たちが、ほぼいっせいに家族や仲間たちの名を呼び、また叫んだことはなかったのではないか。生きているか、無事か、ケガはしていないか、体は大丈夫か・・・・そのように相手のこと、家族のお互いのことを真剣に思いながら、名前を呼んだ朝はなかったのではないか。名を呼んだ者も、そして名を呼ばれた者も、真っ暗な中で、自分の名を呼ぶ親や人の声を聞いて、また返ってきた返事の声を聞いて、いのちのかおりを、「ああ、生きている、生きていてくれた」という無条件の安堵と喜びを分かち合った朝はなかったのではないか。一方でまた、いのちのかおりを確認できずに、恐れや不安が多くの人の体を駆けめぐり、心を覆った朝もなかったのではないか。私も妻も、あの朝、倒れた家具の上を押し広げながら階段に向かい、2階に寝ていた二人の子どもたちの名を呼び、叫びました。その声は震えていたと、今、思い起こします。いのちを求めて名を呼んだ。生きているか、その安否だけを求めて、いのちのかおりを求めて名を呼んだあの時の体験は、聖書の様々な箇所の読み直しを私にもたらしました。その一つにヨハネによる福音書10章1節以下の記事があります。そこには「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と記されています。羊飼いが自分の羊の名を呼ぶ、この時の羊飼いの心の思いをお考えになったことがおありでしょうか。羊飼いは無条件に、ただいのちのかおりを求めて、元気でいるか、生きているか、ただそのいのちの安否を心に広げながら名を呼ぶ、そういう連れ出し方をするのだということをわたしは弾かれたように受けとめました。羊飼いが羊の名を呼んで連れ出す声が聞こえてきたように思いました。その声に宿る、命を思う思いを味わったと思いました。

◆ 人は誰かの名を呼ぶとき、なかなか無条件では呼びません。もっとしっかりしなさい、もっとてきぱきとやりなさい、もっと早くしなさい、もっと心配りをしなさい、もっと勉強しなさい、いろんな条件をつけて相手の名を呼ぶのです。しかしそのような呼び方と連れ出し方をされて人は深く安らげるでしょうか。無条件にただいのちのかおりを求め名が呼ばれる、それは無限の受容です。神はそのように私たちの名を呼び、用いるべく招き出す方なのだ、イエスはそのことを私たちが深く味わい知るように、あの羊飼いの物語を語ったのだと思っています。


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