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2014年11月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年11月23 日(日)午前10時30分
降誕前第5主日 法人同志社創立記念礼拝
説 教:「主はともにおられる」
        神学部教授 越後屋朗
聖 書:ヨシュア記1章8節(旧約p.340)
招 詞:ヤコブの手紙5章10-11節
讃美歌:24、18、第1編239、412、91(1番)
交読詩編:18;47-51(p.20上段)

※次週の礼拝は、同志社大学、同志社礼拝堂にて行われます。
  どなたでもお越しください。

※次週の子どもの教会も同志社礼拝堂にて行われます。お間違えのない様よろしくお願い致します。

2014年11月9日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2014.11.9  創世記18:1-15 「ひそかな笑い」

◆ 神は旅人の姿で人間のもとに現れる、そういう考え方がイスラエルにはありました。日本における旅人歓待の典型は「まれびと信仰」です。このまれびとというのは「まれな人」で本来神を指しているのですが、この神は「死の国」「祖先の霊がいる国」から毎年時を定めてやってきて、村々を巡り、その村の家々を祝福し、悪霊のたたりから救ってくれると考えられてきました。そこで村人たちは、このようなまれびとを精一杯歓待して送り出すわけです。現在仏教の行事とされる「盂蘭盆会(うらぼんえ)」も、もとはこのまれびと信仰に由来する民間習俗だったようです。

◆ さて、先ほど読んでいただいた創世記18章には、アブラハムのもとに突然3人の旅人が姿を現したということが語られています。アブラハムは75歳の時に「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」という神の言葉に従って住み慣れた故郷ハランを旅立ちました。以来25年その間に多くのことが起こりました。アブラハムは百歳になっていました。ある日、アブラハムはマムレの樫の木ところにいました。そこに突然3人の旅人が現れたのです。1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」と書いてありますから、この3人の旅人は実は神の化身、あるいは神の使いであったということになります。それを見たアブラハムは天幕から走り出て迎え、彼らを天幕に招き入れて、最高のもてなしをします。旅人をねんごろにもてなすのは、古代においては中近東でいずれも慣例となっていたことでした。とりわけイスラエルではそれが掟に定められていました。それというのも、イスラエル民族自身が、元来寄留の民として、遊牧の旅を重ね、定住の異民族の好意に依存して、家畜を飼育するという生活を営まねばならなかったからです。

◆ 3人の旅人をもてなすにあたって、家長のアブラハム自身が先頭に立って、食事や飲み物の類にいたるまで、こまごまとした指示を与えています。家長は動物の屠殺からその処置まで面倒を見て、女性は台所でこれを調理するというのが、当時の遊牧民一般の風習でした。したがってサラも客人の前に姿をあらわすことなく、厨房の仕事に没頭していたわけです。
◆ そのときです、旅人の一人がアブラハムに「あなたの妻はどこにいるか」と訊ね、来年の春にはサラに必ず男の子が生まれると告げます。サラは天幕の陰でこれを聞いていました。そして彼女は、月のものがとまった自分が妊娠すると聞いて、「ひそかに笑った」(12節)とあります。「なぜサラは笑ったのか」と神は問います。「わたしは笑いませんでした」とサラは答えます。「いや、あなたは確かに笑った」そう神は言いました。「あなたは確かに笑った」この笑いは神の可能性に対する嘲笑です。この年老いた私に男の子が生まれるはずがないという、うすら笑いであり、冷たい笑いです。

◆ 天幕の陰で密かに笑う、それは誰にも分からないはずの隠し事を意味しています。しかしこの旅人はサラが笑ったということだけではなく、その笑いの理由も見抜くのです。「なぜサラは笑ったのか、なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」この言葉を聞いてサラは恐ろしくなったとあります。なぜならサラは一度もこの旅人たちの前に姿を現してはいなかったし、アブラハムが妻の名を旅人たちに告げてもいなかったからです。そのことは6節〜8節の箇所を読めば分かります。確かにアブラハムは天幕に戻り、妻にパン菓子をこしらえるようにと言います。また召使いたちに、急いで料理を作るように指示します。この間、旅人たちは外の木陰にいました。そして彼らのもとに料理を運んで給仕をしたのはアブラハムであってサラではありません。それなのに旅人は妻の名を呼んだのです。「あなたの妻サラはどこにいますか。」加えてサラは彼らから見えない天幕の陰で、しかも声を上げたのではなく「ひそかに笑った」のに「なぜサラは笑ったのか」と言われたのです。

◆ 神の可能性を密やかに笑う、それは私たちの中に常にあり続けている陰の部分です。今日の物語は誰の中にも繰り返し浮かぶ神の可能性への冷ややかな笑いに焦点があてられています。アブラハムがひれ伏して密やかに笑ったように、あるいはサラが天幕の陰で誰にも分からないと思われたところで密かに笑いを浮かべたように、神の可能性を否定するこの笑いは隠された笑い、秘密の笑いです。表に出すべきことではないと誰もが思っている、してはいけないことだと分かっている、しかし誰もが心の内に密やかに宿しているものが人間には必ずあります。私たちはどうしても人に知らせることが出来ない心の一隅をもっています。醜い考えがありますし、秘密の思いがあります。密かな欲望があり、隠しておきたい秘密があり、どうしても人に知らせることの出来ない心の一隅です。
 神の約束の言葉に信頼して長年住み慣れた場所から75歳という年齢で旅立ったと語られる物語がアブラハムとサラの表の部分の物語だとすれば、今日の箇所は二人が自分の中に見いだし、向き合わされた陰の部分の物語です。けれどそこが今日の物語の舞台です。アブラハムとサラが神と出会う場です。3人の旅人が神の使いであることに気づくことと神の可能性を密やかに笑う自分が顕わにされることとが結びついています。「なぜ笑ったのか」と問いかける主の言葉を聞いてサラは恐ろしくなったというのですから、この時に、より深く、あるいはより強く神との出会いを体験したということではないでしょうか。神と向き合ったサラは自分の生の姿、自分の現実が顕わになることに抗おうとしていきます。「わたしは笑いませんでした」とサラはその場をしのごうとします。しかし主は「いや、あなたは確かに笑った」と言い、サラが本当の自分から逃げる、あるいは避けようとすることを押しとどめ、現実を提示するのです。

◆ この神の言い様を厳しいと読むべきでしょうか。確かに本当と向き合うことは厳しさ、辛さを感じさせます。人間の現実は多くの破れを持っているからです。しかし今日の物語で確認させられるのは、その現実の只中でこそ人は神に出会うのだということではないでしょうか。誰にでも話せる、あるいは自慢できる、堂々と見せることが出来る、そういうところで神に出会えるのではない。いや神に出会うことは出来ないと言ってもいいのかも知れません。人にも言えず、親にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこで人は神に出会う、いやそこでしか神に出会うことは出来ないのだということではないのか。だとすれば「あなたは確かに笑った」という主の言葉は叱責の言葉ではなく、サラが神の御心を深く知るために留まるべき場所を指し示す言葉だったのではないでしょうか。「わたしは笑いませんでした」と取り繕い逃げ出すのではなく、神の可能性を否定し「確かに笑いました」という現実の中で生きている自分をちゃんと受けとめよという促しの言葉なのだと思うのです。そしてそのあなたにこそ私は今こうして呼びかけているし、その呼びかけをあなたは確かに今はっきりと聞いているではないか。神との深い出会いを「恐ろしくなる」という形で味わっているではないかということなのです。神との出会いは、私たちに自分の本当の姿を問いかけ、向き合わせることとして体験させられるのだと、この物語は教えているのではないでしょうか。

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