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2014年11月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年11月16 日(日)午前10時30分
降誕前第6主日
説 教:「『わたしはある』という名の神」
牧師 望月修治
聖 書:出エジプト記
3章1-15節(旧約p.96)
招 詞:ヘブライ人への手紙8章8-9節
讃美歌:29、52、451、516、91(1番)
交読詩編:77;1-16(p.83上段)

※次週の子どもの礼拝は野外礼拝を予定しています。9:30に栄光館前に集合してください。
※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
  どなたでもお越しください。

2014年11月2日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2014.11.2   創世記9:8-17 「契約の虹を置く」                  

◆ 先週火曜日から木曜日まで3日間、第39回教団総会が東京池袋のホテルで開催されました。教団総会では2日目の朝、議事に入る前に逝去者記念礼拝が行われます。そこでは、前回の総会からの2年間に亡くなった教師と宣教師の名前が呼ばれ追悼の時をもちます。今回は134名の名前が読み上げられました。最高齢は101歳、50代半ばで亡くなられた教師も数名おられました。その中に、昨年4月20日に86歳で亡くなられた河﨑洋子先生の名前もありました。

◆ 一人の人の死の意味を理解する、納得するというのはそう簡単なことではありません。とりわけ人生半ばにおける自分の夫、自分の妻、自分の子供の死、あるいは親しい友人など愛する者の死に出会ったとき、人は特に強く「なぜ」と問い、その答えを激しく求めます。イエスは弟子たちに自らの十字架の死について語りました。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」。「しばらくすれば」とはイエスが「木につるされる時」「十字架の時」を指しています。

◆ かけがえのない者の死に直面させられる。今まで一緒に生きてきた人が亡くなる。それは文字通りその人が見えなくなり、失われてしまうことです。深い喪失感に包まれます。「なぜ」という問いが心に広がります。そこに向けて語りかけられるのが「またしばらくすると、わたしを見るようになる」というイエスの言葉です。この言葉を伝え始めた初期の教会の人たちにとって、この言葉はイエスの再臨が近いという現実感を伴って生き生きと響いていったのだろうと思います。

◆ では私たちにとって「しばらくすると、わたしを見るようになる」ということは、どのような形で味わいうるのでしょうか。那覇市に住む上地寿子さん(49歳)が夫を亡くして8ヶ月が過ぎて、夫の死と向き合いながら心の思いを綴った投書が新聞に載っていました。“へそ曲がりの私はたった五文字の「ありがとう」をいつも言えないでいた。感謝の気持ちはあるのに、言葉にしてしまうと何だか軽くなる気がして。あなたが遠い空のむこうに旅立ってからもう八ヶ月、最後の最後にも、やはり「ありがとう」の言葉は出てこなかった。どうして先に逝っちゃうの、私をおいて逝かないで。責める言葉ばかり。悲しくて、つらくて、心が張り裂けそう。友の、家族の「頑張れ、病気に負けるな」の声を力に、「生きるんだ」とつらい治療にも耐えた。でも運命には逆らえなかった。 過日、見知らぬ人に声をかけられた。「あなたのご主人に励まされ、入院生活に耐えることができました。ご自身も大変な病気でありながら、病棟の人たちに『頑張れ、早く家に帰れるように』と励ましていた」と話してくれた。何度も「ありがとう」と私に手を振って。 遅くなったけど、今、素直に「ありがとう」と言えるようになった。宝物(息子二人)を残してくれてありがとう。素直じゃなかった私を素直にさせてくれてありがとう。生きるということの素晴らしさを教えてくれて、幸せな時間、人生を共に歩んでくれてありがとう。あなたという大きな傘の下で守られてきた家族。これからは私が傘になり、子どもたちを守っていきます。今度あなたに会えた時に、「頑張ったね」とほめてもらえるように。たくさんの「ありがとう」と引き替えにあなたの笑顔にもう一度会いたい。”
夫が病床で同じ病棟に入院している人たちを励まし、その励ましに支えられて病気が癒え退院した人がいた。そのことを知ったとき上地さんは「なぜ」という問いに納得を得ました。もう一つの命を生かして夫は旅立った、その事実が「なぜ」という問いを包み込んだのだと思います。

◆ さて今日は旧約聖書の創世記9章を読んでいます。創世記の6章から「ノアの洪水」物語としてよく知られた物語が記されていますが、9章はその締めくくりの部分です。この物語に宿る奥深さは、洪水後のエピソードの中に見いだすことが出来ます。8:20-22にこう記されています。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主はなだめの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』」

◆ 6章、7章には、神が人間たちの間に悪がはびこって広がり、納まる様子がないために、大洪水を引き起こしたと書かれています。そうであるならば、洪水後の物語の展開とすれば、洪水によって神が悪を一掃して、人間も心を入れ替えて善を行うようになるので、もう二度と大地を呪うことはしないという筋立てになるのが妥当なはずです。ところが創世記にはそのようには書いてありません。洪水のあとも、人間はちっとも変わらないだろう、人が心に思うことは幼い時から悪いし、それはこれからも変わらないだろうということを認識しながら、でももう二度と生き物をことごとく打つことはしないと約束するのです。大洪水によって変わったのは、人間ではなく、神です。この「神の心の変化」こそが、ノアの箱舟物語の中心テーマです。

◆ そのことは6章から9章において、ノアが一度も言葉を発していないという点に明確に示されています。言葉を発しているのは神だけです。ノアにも様々な迷いや不安があったはずです。汗水流して箱舟を造ることに何の意味があるのかと自問自答したに違いないのです。しかしノアの箱舟物語には、そうしたノアの内面のつぶやきやうめきは、まったく触れられていません。そのかわり次のように記されています。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22)。ひたすら神に聞き、神に従うノアの姿を浮き彫りにしています。そしてこのノアの生き方に神は心を動かし、心の思いを変化させるのです。人間が悪を行うことをやめようとしないが故に洪水を起こし裁く。しかしそのことに心を痛め、またノアの生き方に心を動かし、人間は変わらないかもしれないが二度と打つことはしないと心を変える、そのような神をノアの物語は語っています。

◆ そのことをもう一つの象徴を用いて物語ります。それは「虹」です。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(13節)神はノアと契約を結びます。ただこの契約は神とノアが対等な立場で結ぶものではありません。今後二度と洪水によって地を滅ぼすことをしないという、神からの一方的な契約でした。そのことは、このときノアが一言も発していないことから分かります。人間の罪がぬぐい去られ、過ちがなくなったからではなく、神が、悪が広がるゆえに地の全てを滅ぼすという最初の決意を変えたのです。そして神は空に雲を沸き起こさせ、そこに虹を置いて、契約のしるしとしました。虹をギリシア人は「天と地の架け橋」と考え、ユダヤ人は「戦いの弓」と考えました。旧約聖書の原語ヘブライ語では、虹は「戦いの弓」と同じ言葉です。古代のメソポタミア地方では、全地が水に覆われてしまうような大規模な洪水が起こったようです。その恐ろしい雨のあと、空にかかる美しい虹を見て人々は神の働きに思いを巡らせたに違いありません。そして虹とは、神が戦いの弓を手に取らず、手放していることを示していると人々は考えたのです。そしてこの虹が現れた時には「契約を心に留める」ということが二回繰り返して語られ、強調されているのですが、いずれも虹を見て契約を繰り返し思い起こすのは人間ではなく、神なのです。神は心を変えて、人を死という滅びから永遠の命に招き入れる道を備え続けておられます。

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