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2014年10月5日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2014.10.5   ヘブライ人への手紙9:23-28   「荷役への献身」         
                                
◆ 紀元80年代から90年代にかけての頃、キリスト教への激しい迫害が嵐のように襲ってきていた地域あった教会に向けて、一つの手紙が書かれました。それがヘブライ人への手紙です。かなり厳しい物言いも重ねてなされています。例えば6章4節以下で「一度光りに照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と記されています。いったん福音を受け入れ、イエスをキリスト、救い主だと信じたのに、その信仰を捨て去るようなことになったなら、それはイエスをもう一度、自分の手で十字架にかけるのと同じことであって、再び神のもとに立ち帰ることはできないというのです。これは大変きつい物の言いようです。聞かされる私たちは、心が暗くなってしまいます。信仰ってそんなに厳しいことなのか。そんなこと聞きたくて教会に来ているのではない、礼拝に来ているのではない、と思ってしまいます。確かにそうなのですが、このきつさは、イエスの十字架の出来事のきつさを思うことを私たちの中に呼び覚まします。イエスは十字架の上で叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この叫びは人に向かってではなく、神に向かって発せられました。神は最後の拠り所です。そこに見放されたらもう行き場がない、救いがない、帰る場所がない、そういう最後の拠り所です。その神に向かって「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶしかなかった。これはきついことです。

◆ なぜイエスはそのようなきつさの極みを味わわなければならなかったのか。そのことを今日の箇所では26節以下に次のように語られています。「(キリストは)世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。・・・多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」 イエスの十字架の出来事は「執り成し」のためであったということ、その重荷を担う務め、役目を果たすためにイエスは身を献げた。献身したということに人々が目を向け直すことを促します。

◆ 神の前に立つ人の状況は様々です。それがどのような状況であっても、見捨てないで下さいと執り成すためであったとこの手紙は告げるのです。「悔い改め」という方向転換は、誰かに寄り添われていることの大切さ、かけがえのなさに気づくとき、私たちに訪れます。ただ、どんな人も寄り添ったら、傍にいたら、皆悔い改める、生きることの方向を転換しようとするわけではないかもしれません。しかし見捨ててしまったら、切り離してしまったら、孤独にしたら、方向を転ずる促しを受け取る場そのものが失われてしまいます。イエスは最後の最後まで「一緒にいる」という世界が、どんな人からも失われることはないと言い続けた人でした。その執り成しのために支払われたのが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というきつさの極みを受けるということであったのだと思うのです。イエスは「執り成す」という荷を担うために身を捧げた人です。

◆ わたしたちはいろいろな動機でキリスト者となり、信仰生活へと導かれてきました。クリスチャン・ホームに生まれ、幼い頃から教会になじんできた人もいれば、人生のある時点で劇的な回心を体験する人もいる。キリスト者としてのスタートはさまざまだが、どんな人生にも山はあり谷があり、波風の立つ日も平穏無事な日もあるように、信仰の生活もさまざまな経験の積み重ねを経て続いて行く。キリスト者であるからつねに幸福であり平安にみちているとは限らない。信仰者もまたすべての人たちが経験するよう生老病死に関わる苦しみや悲しみを味わう。さらには信仰者であるがゆえの悩みや葛藤に直面することもある。聖書に登場する多くの人たちのなかで、自分の思い通りの人生を送った人、一般的な意味での幸福な人生を送った人というのはむしろごくわずかなのではないか。時代や状況が違うとはいえ、そこには衣食住に悩み、飢餓や病気や戦争に苦しむ人たちの姿が描かれている。さらにはモーセやエリヤやエレミヤのように、神の召命のゆえに労苦の多い人生を歩んだ人もいる。さらにはヨブのように身に覚えのない不幸、不条理や苦しみや葛藤の中で生きていかなければならない人々も登場する。信仰者であるからといって人生が悩みや不安がなく、おもしろおかしいものになるわけではありません。

◆ ではなぜ人は信仰の道を歩むという選択をするのか。福音書記者のマタイはイエスの誕生物語の中で、イエスという名前について「この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記しています。イエスの生涯、キリストであることを意味は何か、それは、神がどんな時にも共にいることを示し続けることにあるのだとマタイは言うのです。どんな時にも「共にいる」、そのことに気づきなおすとき、傍にいてくれた誰かを、そのかけがえのなさを思い起こしたとき、人は自分の思いを超えて働き、届き来る力や支えが命を生かすことを深く納得する体験を味わうのです。ふっと飛躍して、届きそうで届かなかった所に立っている自分に気づくのです。

◆ NHKが、東北地方の被災地で開かれたのど自慢の予選の出場した人たちのことを取り上げていました。3・11からちょうど6ヶ月たった2011年9月11日に岩手県久慈市で開かれたのど自慢の予選に清水良成さんが出場しました。高校時代からの親友で同じ漁師仲間であった久保田さんを津波で失いました。心が空虚になっていたある日、たまたま運転していた車のラジオから聞こえて来た曲がありました。沖縄のグループBIGINが歌う「涙そうそう」です。「古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた/いつもいつも胸の中 励まして くれる人よ/晴れ渡る日も雨の日も 浮かぶあの笑顔/想い出遠くあせても/おもかげ探して よみがえる日は 涙そうそう/さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう/会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう」 この歌詞は親友を失った清水さんの心にしみ込みました。「このままでは、静かに忘れられて行きそうだ」と想い、亡くなった友のことを想って、忘れてくれるなという想いを込めて歌おうと、のど自慢に応募しました。人前で歌うなど考えられない自分だったが、亡くなった友のことを思ったとき、なぜか歌おうと気持ちが動いた。そして「涙そうそう」を歌いました。結果、鐘は鳴らなりませんでしたけれど、友の死を心に刻んで歩み出そうと思った。埋めることのできない喪失感の中で、友の死に向き合う清水さんの姿には、命のかけがえのなさを想う思いの深さが宿っていました。

◆ イエスが十字架にかけられて亡くなった.その喪失感の中で、人々が気づいたことがありました。パウロはそれを「生きるにしても、死ぬにしても、わたしは主のもの」であり、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」だという表現で語りました。私たちが味わうさまざまな体験、それを人は色分けして、よいこと悪いこと、益になること無益なこと、意味のあること無駄なことと価値判断を下し、人の生き方を評価するというだけでなく、自分への評価も下し、ときには自分を裁いてしまうこともある。けれどそのすべての出来事、すべての体験は主のものだとパウロは語ります。そしてキリストが死に、そして生きたのは、そのいずれの状態にいる時も、その人の主、救い主となられるためでした。イエスは、わたしたちの悲しみの中心に立つ。それはわたしたちの悲しみを内側にではなく、神に向けることを促すためです。そしてそれがイエスの担い続ける「執り成し」の働きなのだと思います。

2014年10月19日(日曜)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年10月19日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第20主日
説 教:「幸いと語る理由」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
5章1-12節(新約p.6)
招 詞:イザヤ書25章6-9節
讃美歌:24、2、390、579、91(1番)
交読詩編:146(p.159下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
  どなたでもお越しください。

※礼拝後、クラッパードインにて 同志社リトリートが行われます。

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