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2013年2月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年2月10日(日)午前10時30分
『降誕節第7主日』
説 教:「湖上を歩く」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
14章22~36節(新約p.28)
讃美歌:28、2,451,462、91(1番)
交読詩編:107:10-22(p120上段)
招 詞:イザヤ書30章18~19節

2013年2月3日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第6主日 2013.2.3
説教:「カナンの女」 望月修治
聖書:マタイによる福音書15章21~31節

◆ あるときイエスは、異邦人の地であるティルスとシドンに赴きました。そこでカナン人の女性がイエスのもとにやってきて、自分の娘が悪霊にとりつかれてひどく苦しんでいると訴えます。しかしイエスは冷淡とも見えるほどに、何も答えませんでした。弟子たちがきて「この女を追い払ってください。叫びながらついてきます」と言うと、その弟子たちの申し出を肯定して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスは答えています。最初は何も答えず、次は言葉で拒絶する。この場面のイエスはどこか冷淡さを漂わせているといえます。イエスの排他的な態度に訝しさを感じないわけにはいきません。
◆ しかし、この母親はそれでもなお引き下がらずにイエスに訴えます。弟子とイエスが話をしている時に、その弟子たちを押しのけるようにしてイエスに近づき、足もとにひざまずき言います。「主よ、どうかお助け下さい。」「助ける」と訳されている言葉の原意は「人の悲鳴を聞いて駆けつける」です。「主よ、あなたは今悲鳴を上げているわたしの救い主だとは言って下さらないのか」と迫るのです。イエスも女の方に振り向かざるを得ませんでした。
◆ しかしイエスはなお突き放すように言葉を重ねるのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」・・・・子供とはここではユダヤ人のことです。また小犬とは異邦人のことを指しています。ユダヤ人は異邦人を時折「犬」と呼びました。カナンの女は娘の病気が何とか癒されるようにとイエスに願い出たわけですが、その救いの働きはまずユダヤ人に優先して与えられなければならない。カナン人であるあなたとあなたの娘に対してはその次だというのです。彼女はこのイエスの言葉に対して「主よ、ごもっともです」と答えます。動かしがたい事実に直面して「ごもっともです」と答えるしかなかったのです。この答えは彼女が自分の置かれた現実を全面的に受け止めたことをも示しています。彼女はここで抵抗しません。叫びません。反論もせずまた問い返しもしません。神の恵みの順序、それはまずユダヤ人からだという、イエスの示したことを、彼女にとっては過酷なものであっても「ごもっともです」と受け止めます。
◆ しかしこの言葉はイエスを揺さぶり、イエスを動かします。「あなたの信仰は立派だ」とイエスはこの女に語りました。立派だと訳されている言葉は「大きい」という意味です。「あなたの信仰は大きい。」「大きい」とはどういうことか。彼女はユダヤ人ではありません。ですからおそらくイエスのこともあまり知らなかったのではないでしょうか。そのような異邦人である彼女の何が「大きい信仰」だというのでしょうか。
◆ 彼女はここでパンではなく、パンくずを取り上げています。これは鮮やかな視点の転換です。彼女はここでイエスが言われたことを何一つひっくり返していないし否定もしていない。ユダヤ人に与えられる優先権も奪わない。また自分たちが犬にたとえられていることも拒絶しない。しかしパンではなく、パンくずを取り上げるによって、恵みに預かりたい、救ってほしいという願いを現実のものとして引き出すのです。パンくずは、誰も拾わない、誰も取り上げない、誰も振り返らない不要なものを象徴しています。でもそれを彼女は取り上げ、自分の娘が危機的な状況にある、切羽詰まっている、でも異邦人である自分にも娘にも神の働きは及んでいるのではありませんか、私と娘がおかれた状況を神は見放しておられるはずはないのです。だから振り返ってください、助けてくださいと彼女は願い、求めたのです。
◆ 神はすべてのとき、すべての場所、すべての命に働きかける。神が働かない場所などない。神の働きが届かない状況などない。カナンの女が語った「パン屑はいただきます」という言葉は、そのことの確信を語る言葉です。この言葉はイエスを動かしました。「まいった」と思ったのではないでしょうか。「あなたの信仰は大きい」というこの「大きさ」は、イエスが突き動かされた大きさだと思います。神は人の願いを聞き、態度を変える神です。そして「あなたの信仰は大きい」と言われる。その大きさは神が態度を変えてくださった大きさなのだとも言えるのではないか。
◆ 何かをするとき、それにふさわしい力をもっと与えて下さい、そうすればやりましょう、という発想をします。しかし神は、現在を見つめさせる。今何を持っているかを確かめさせる。もっと何かを与えあられたらではなくて、今持っているものを用いて働く。パンくずにたとえられる状況であっても、そこに神は共にいる。神がいない状況などないのです。

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