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2022年11月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福音書15章1~20節 「日々、新たにするもの」 菅根信彦

★ 高校時代に洗礼を受けて間もなく、幼い頃からお世話になった教会学校の校長先生から一つの助言を受けました。教会での信仰生活を知るには、自分がこの方と思う尊敬する信徒の方がいれば、その人の教会との関わり方を「とにかく真似てみなさい」と言われました。そうすると、「一つの信仰の形ができますよ」と言われました。そして、そう助言してくれた方の教会の関わり方を習おうと思いました。その方の礼拝への姿勢、奉仕の仕方など自分のものにしたいと必死に真似て生きようと思いました。今思い返せば、一つの形ができたように思います。教会生活には習慣のようなものがあるのだと思いました。しかし、それはどこまでいっても形を学ぶものでした。

★ 確かに、私たちの生活の中には「模倣の文化」があります。そして、真似ることは「根底的に他人と繋がること」とも言われています。例えば、「書」「絵画」「音楽」を学ぶ、「茶道」「華道」、あるいは古典落語を含めて「芸術を学ぶ」ということは、ある意味で、最初は全て模倣から始まっていきます。歌舞伎の世界もまさに「模倣の文化」の上に、さらに、それぞれの伝統を守りながら独創性が生まれてくるものだと思います。「模倣の文化」は優れた継承文化の映しであると言えます。

★ 考えてみれば、私たちの生活の中にも模倣した流儀や習慣など大切なものがあります。作家の大江健三郎さん的に言えば「人生の習慣」(habit of being)とも言うべき心の態度、佇まいがあります。さらに、社会から受け継いだ、個人の枠を超えた社会の習慣化された文化となるものを形成するようになる場合もあります。それが、暗黙の人々の「心の習慣」(habit of the heart)となっていきます。民族的な気風のようなもの、無意識の中での規範となっていくものです。しかし、時にその「心の習慣」が宗教的要素を含んで、逆に意識や倫理観まで規定していく場合があります。

★ イエスの時代、ユダヤ教律法主義がまさに「心の習慣」とも言うべきものでした。特に、神との関係において築いてきた律法をベースに派生した様々な習慣・習俗、あるいは暗黙の内に意識化された教えや規範がありました。それは律法から派生した別の習慣のようなものでした。今日の聖書個所で言えば、「昔の人の言い伝え」という言葉で表現されているものです。この「言い伝え」は文書化された律法とは異なり、特に、ファリサイ派の人々や律法学者の人々に広まり、定着化し、さらに、生活の中の規範や習慣として根付いていったものです。まさに、「心の習慣」のようなものです。それは、モーセの律法を守ることと同等のものと見なされていたようです。

★ イエスのもとにエルサレムからガリラヤに来たファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスの弟子たちが「昔の人の言い伝え」を守っていないことを批難します。「食事の前に手を洗う」とのことでした。この教えは現代では当たり前の生活習慣ですが、これに「清浄規定」と言われる宗教的な意味が付加されていきます。そして、「手を洗わないで食事をすること」が習慣を越えて文字通り「宗教的罪」となっていくのです。「昔の人の言い伝え」が、単なる先祖の伝承ではなく人間を選別するような「極度の倫理観」を伴うものとなっていきます。それこそ悪しき「心の習慣」となる場合があるのです。

★ 論争を仕掛けられたイエスは、「清浄規定」あるいは「昔の人の言い伝え」の「掟」そのものに注目し、イザヤ書を引用して「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしを崇めている」(29章13節)と語ります。イエスは「形式」となった「清浄規定」を越えた、神への信頼や信仰を表明する時の「本質」を厳しく問いかけます。すなわち、「口先で敬う」が「心は遠く離れている」という預言者イザヤの言葉を用いてイエスは「心」(カルディア)を見失った在り方に警鐘を鳴らします。

★ このイエスの問いかけは、現代に生きる私たちにも届いてきます。確かに、私たちの社会は、一定の形式やリズムをもって進んでいきます。そして、形式も習慣性も大切な事柄です。しかし、形式だけを整えようとすると、いつの間にかその真の動機が薄れてしまうことがあります。そして、また、一度できあがった「人生の習慣」「心の習慣」また「制度」も、中々改善することが難しくなります。しかも、そこで出来上がった形の意味すら忘れ去られていきます。そして、最も大切な本質的事柄に覆いがかけられ、形式のみが優先されていきます。

★ 先週、法務大臣が失言して事実上更迭されました。その翌日のある新聞で1948年に熊本で起こった「免田事件」(冤罪4大事件の一つ)を新聞記者として事件の検証を続け、膨大な資料集作成に関わった高峰武さんのインタビューが掲載されていました。免田事件は1952年に死刑が確定。当初から自白調書に問題点がありながら、8回の再審請求を経て1983年に熊本地裁がアリバイを認めて無罪を言い渡された事件です。無罪を勝ち取るまで31年間かかりました。しかし、その間の1956年、死刑判決がでた4年後には熊本地裁が再審開始を認めていましたが、福岡高裁が再審開始を取り下げてしまいます。その取り消しの理由が「法の安定」という言葉だったそうです。一人の方の生涯や命より、司法界の安定、判決の維持(形)に重きがあって、社会に戻るのにそれ以後27年以上の月日を費やすことになったのです。高峰さんがそれを「司法のゆがみ」と指摘していました。高峰さんは「先ず間違わないこと。もし間違ったらそのことに気づいて直ぐ訂正すること。司法だけでなく、そんな柔らかな社会を構想していくことではないでしょうか」と次の世代に伝えたいと語りインタビューを終えていました。

★ 私たちも様々な「人生の習慣」「心の習慣」、これまで培ってきた形式、儀礼を大事にして生きています。信仰の世界でも自分たちのリズムや形があります。しかし、形にこだわり本質を忘れてしまうことがあります。生かされてある命、イエスの十字架による赦し、神共にいますとの信頼を忘れ、自分の流儀や自分の考えがいつしか絶対になってしまう時があります。まさに、イエスが指摘するように「昔の人の言い伝え」が神への応答を形骸化してしまうようにです。私たちの心を見つめる神の働きかけ、私たちを日々新たにさせる神の働きを覚えて、形式でなく、日々新たな心で応えていく信仰生活の営みを大切にしていきたいと思います。

2022年11月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年11月27日(日)午前10時30分
降誕前第4主日・待降節第1主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「備えられた希望」
              伝道師 大垣友行
聖 書:エレミヤ書33章14〜16節
招 詞:詩編24編9〜10節
讃美歌:24,233(1・2・3節),96(1・3節),230(1・2・3節),91(1節)
※下線部は1954年度版讃美歌、聖歌隊による賛美です。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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