SSブログ

2022年8月28日(日)の説教要旨 [説教要旨]

エフェソの信徒への手紙4章17~32節 「神の栄光をあらわす命」 大垣 友行

 この手紙は、使徒パウロの名によって認められた書簡という体裁を採っておりますが、パウロの手になるものと受け入れる立場と、パウロの名を借りて書かれたものであるとする立場に分かれます。また、本来はエフェソの人々に向けて送られたものではなく、宛先については後付であるということが、通説になっているようです。パウロの手紙は宛先が分かるように記されていることから、パウロの権威を借りるために、そのように付加されたのだと推測されるとのことです。またこの手紙は、コロサイの信徒への手紙との、内容的な類似性が指摘されています。
 こうした事情がありながら、その内容に目を向けますと、時の流れと共に、主題が変わっているということが示されてきます。パウロの手紙では、論敵との戦いや、特にユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間で問題になっていた割礼の是非などが大きな論点となっていました。ですが、このエフェソ書においては、そうした論争は影をひそめ、調和、一致を勧めるものになっています。書きぶりも穏やかなものになっています。キリストを頭とする教会のあり方が説かれ、和解と一致を得るために、そこに集うことが勧められています。
 本日の箇所は、教会に集う者として、どのような生き方をすべきなのか、そのことを読者に示し、勧めている部分です。冒頭に「異邦人」という言葉があります。先程、割礼の問題の扱われ方が変化したということに触れたのですが、この手紙ではもはや、非ユダヤ人ということが考えられているのではありません。それはむしろ、あれこれと考えや思惑を巡らせて、自己完結してしまうことに対する戒めです。正しい教えがなければ、得てして人間は神様に背を向けてしまうものだからです。ここに記されているように、情欲に身を任せて、望ましくない生活を送ってしまいがちだということです。
 ですが、同時にここで指摘されているように、イエスについて知っているわたしたちは、その真理に基づいて生きる生き方を、自分のものとすることができるはずです。ここで特に強調されているのは、お互いに対して思いやりをもつべきであるということです。誰かから奪うことなく、むしろ与えること、言葉によって傷つけるのではなく、むしろその人に、神様の恵みを感じさせるような、和らいだ言葉をかけるべきことが、ここでは勧められています。そして、その勧めの根拠は、わたしたち一人ひとりが、イエスを頭とする教会の一部であるということに他なりません。聖霊を受け、イエスを通して神様につながっている者として、悪意を捨てて、和解と一致の道へと歩み出すようにと、この手紙の著者はわたしたちの背中を押しています。
 こうして御言葉に触れてみますと、その勧めるところは、決して一人ひとりが殉教者として力強くあるように、というわけではないらしいことが分かって参ります。確かに、この手紙の著者は、最後の6章で、悪と戦うべきことをも勧めております。ですが、まず読者がイエスにつながっていることを信じ、そして感じながら、愛の交わりを深めていくこと、それが求められているのだということになるでしょう。力強く立つ人も、教会の交わりに根ざし、そこから力を得ていくものなのです。
 ふと考えてみますと、わたしたちの人生の歩みも、そうしたものなのかもしれません。往々にして人は、自らの栄光を掴み取ろうとして、日々奮闘します。ですが、また往々にして、そうした意気込みは長続きしないものでもあります。恵みのもとで、無事に健康を与えられて息づく命もあれば、志半ばで、それを手放さざるを得ない場合もあります。理不尽な状況に追いやられる時、わたしたちは人生の意味について問い質したくなります。
 人生の意味は何によって与えられるのでしょうか。自らが成し遂げた何事かによってでしょうか。人は自分の人生、自分の命が空虚なものになってしまわないように、必死になって、その空洞を埋めようとします。それを充実させたいという思いは誰にもあります。ですが結局のところ、自分で自分の人生を意味づけすることはできません。そのようなアポリアに迷い込んだ時の手がかりが、今日の御言葉の中にもあるのではないか、と思われてなりません。
 偉大な働き、力ある信仰があることを認めつつ、わたしたちは、エフェソ書が述べているように、何事かを成し遂げることよりも、まずは交わりを深めてゆくことを大切にしたいと思います。わたしたちにとっての本当の重大事は、イエスの十字架によって、すでに果たされてしまっているとも言えるからです。わたしたちはそれを仰ぎ見て、イエスに従いつつ、お互いを思いやっていくことが求められています。その時、自らが果たそうと躍起になっていたことを手放すことも、あるいは可能になるかもしれません。自らの栄光を求めることをやめる時に、神の栄光をあらわす命としての道が、開けていきます。
 家族や友人と言葉を交わし、お互いの状況について聞き合う和やかな時に、和解や一致を勧める、この手紙の著者の願いが現実のものとなります。命が与えられている限り、わたしはそのような交わりを大切にしたいと思いますし、さらには著者の戒めに従って、閉じられた人間関係に満足することなく、開かれた関係を求めたいと思います。大切にし得る者を大切にする、それは徴税人だってそうするではないか、というイエスの言葉が届いて参ります。
 思いやりの心を大切にする、新しくされた命は、完全無欠の強い者ではありません。これを象徴するイエスの歩みも、破れや戸惑いと共にあったことを思い出したいものです。豊かな賜物をもって活躍される方々もいらっしゃれば、様々な事情のために、思うにまかせず、残念な思いをしていらっしゃる方もおありと思います。誰もが、神様の目から見れば、脆いものでもあります。そのようなものとして、時に苦しみながらも、イエスにつながる者として、交わりの輪を広げ、それを深めてゆくものでありたいと願います。そして神の恵みによって力強く支えられて、力強い、確かな一歩を踏み出して行きたいと願っています。

2022年9月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年9月11日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第15主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「最も大いなるものは、愛」
      同志社女子大学准教授 山下智子
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節〜13章13節
招 詞:詩編100編1〜2節
讃美歌:24,484(1・2節),505(1・2節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。