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2021年12月19日(日)の説教要旨 [説教要旨]

クリスマス礼拝 ヨハネによる福音書1章1〜14節 「光の矢を放つ」 望月修治

◆「歌を歌おう悲しいときこそ/歌を歌おう寂しいときこそ/歌を歌おう生命かけて/あなたに届くように/暗闇に迷いながら/希望を/信じてるあなたの笑顔は美しい」 MISIAさんが歌う「歌を歌おう」という曲の1節です。昨年からコロナ禍という日常を過ごしてきました。誰もが様々な困難に直面しています。傷ついた心に寄り添う誰かがいてくれないか、明日への希望を見出せることを願い、自分を癒してくれる言葉を探す時代に私たちは立たされています。そのような今を生きる人たちに少しでも、寄り添えればと願い、この歌も作られ、歌われています。

◆ 神もこの世に生きる人々に歌を届けます。特に社会の最底辺に生きていた人たちに歌を届けます。福音書記者のルカは、夜の暗闇の中で野宿し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、神が天の使いを通して賛美の歌を届け、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたと物語っています。今日読んでいますヨハネによる福音書1:1〜18も、ヨハネが属していた教会で歌われていた賛歌が土台となって、それをヨハネが素材にして編集したのだと考えられています。神は暗闇の世に救い主を送ってくださり、まことの光として人間を照らし、満ち溢れる恵みを届けてくださった、と人々は歌い神を賛美した、その賛歌を土台としてヨハネはイエス・キリストの物語を書き起こしていきました。

◆ 神の出来事、人の思いをはるかに超える神の働きを伝えるときには、歌が言葉にまさることがあると深く思います。歌は言葉に紡ぎきれない思いを誰かに届けるために、そしてお互いに分かち合い、共感し、伝え合うために、いつの時代も歌われてきました。コロナ禍の中で私たちはそれぞれ暗闇の中にいる自分を思う時がありました。そのような体験をしながら歩んできて今、今日の聖書箇所の言葉が新たに響きわたり、染み入ってくるのを感じるのです。「光は暗闇の中で輝いている。」 ヨハネが記すこの言葉が、どれほどに深く神の働きを伝えていることか、この世に生きる者に徹底的に寄り添う神の思いがどれほど大切なものであるかを語りかけている、そう思うのです。暗闇の中で輝いている光、それは時には歌であり、時には語りかけられた一言であり、時には「しんどいね、辛いね」と書き送られてきた小さなカードであり、そして時には「一緒にいるよ」と笑顔を見せてくれた友や仲間や家族でした。その一つ一つに神は思いを宿し、暗闇の中の道を示す光を矢の如くこの世界に放つのです。

◆ 福音書記者のヨハネは9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と書き記しています。暗闇の中で輝く光こそ「まことの光」だとヨハネは語ります。ヨハネ福音書が書かれ、かつ読まれた紀元1世紀末の状況について、ヨハネは3:19〜20にこう記しています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。・・・悪を行う者は皆、光を憎む。」 光よりも闇を好む、それは当時の保守化していたユダヤ教を指しています。ユダヤ教の人々は、自分たちの教えにそぐわないものを異端として弾圧し、排除していました。その矛先が向けられたのがキリスト教でした。異端排斥の動きは、ヨハネが属していた教会にも厳しい試練として降りかかってきました。そしてイエスの福音を受け入れるのか、それとも会堂から追放されることを恐れてユダヤ教に戻っていくのか、その二者択一の決断を迫られたのです。

◆ ヨハネ福音書は、危機の中に立たされた人たちに「光」という言葉を用いて、神の働きに再びいのちの歩みを託し直すことを強く促しました。ただし、ヨハネは「光」について、いくつかの但し書き、説明書きを記しています。記されている順番で申しますと、4節「人間を照らす光」であること、5節「光は暗闇の中で輝いている」ということと「暗闇は光を理解しなかった」ということ、9節「すべての人を照らすのだ」ということ、さらに付け加えるなら11節「民は受け入れなかった」ということです。そしてその一つ一つが、この光が「まことの光」であることの意味を明らかにするというのです。

◆ しかしこれらは奇妙な但し書き、あるいは不可思議な説明書きだと思います。この光はすべての人を照らし出すのに、人は光を理解しなかった、民は受け入れなかったというからです。「すべての人を照らす」とヨハネが語る光は、暗闇の中で輝くというのですから、人の姿形を表からも裏からもくまなく照らすということとは違うはずです。「すべての人」を「人のすべて」と読み替えてみたらいいのではないかと思います。その人の内側、その人の本当を照らし出すということです。その人のすべて・・・昨年のクリスマスから新しい歩みを起こして今日まで歩んできました。そのすべてを照らし出す光です。それぞれの歩みを振り返らされます。不安になったことがありました。疲れ、行き詰まり、気力を失いかけ、あきらめを覚えた時もありました。なぜ自分だけと思った時があり、不平や不満を覚えた時もありました。人を批判し、評価し、あそこやここが気に入らないと口にして、文句を並べたこともあったかもしれません。大切な人との突然の別れに悲しみ、力が抜けていくのを感じることもありました。喜びや充実を味わえた時もあり、新しいことに出会えて新しい気づきが訪れた、そんなこともありました。託された責任や務めに戸惑ったり、尻込みしてしまうことだってあったかも知れません。そのすべてを照らし出す光です。その光を民は理解しなかった、受け入れなかったとヨハネは語ります。それは、自分のすべてを明るみに出されるなどごめんだと思うからです。暗闇の中に置いたままにしておきたいと思うことを私たちは多く持っているからです。

◆ しかしそれは誤解です。すべてを照らし出すのは、白日のもとにさらすためではありません。現代のネット社会のようにあげつらい、誹謗中傷にさらすためではありません。その人の全てを照らすのは、その人の全てを知ってその人に寄り添うためです。ありのままを知ってこそ深く寄り添うことができるからです。ヨハネは「光」を「言」とも表現し、こう語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)この箇所をある人は次のように訳しています。「わたしたちの間に旅人として宿った。」 旅人として私たちのもとを訪れ、そこに幕屋を張り、共にいる。そのようなイメージで語られる「光」が、わたしたちのすべてを明るみに出し、さらしものにするものであるはずはありません。

◆ 一人一人を、その時のその人として受け入れ寄り添う、その生き方はイエス・キリストの生涯を指し示します。イエスは闇を蹴散らし、屈服させようと歩んだ方ではありません。光が闇と戦って打ち勝ったということではないのです。イエスはそれとは「別の道」を示しました。十字架にかけられ息絶えようとする時にイエスが語った言葉がその「別の道」を示しています。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というイエスの最後の言葉です。神にすべてを委ねるという道です。それは相手を最後には見返して溜飲を下げるということではありません。そういう意味でこの世の勝ちを得る道ではありません。この世的には勝ちは見えないかもしれない。けれど神にすべてを委ねるという「別の道」を辿る旅人となる生き方は、深くその人を生かす道なのです。そしてその時々に出会い向き合う誰かをも生かす道なのです。イエスはそのことを示したのです。だから「闇は光に勝たなかった」とヨハネは記したのです。闇は光を捕らえることはできなかった、光を取り押さえることはできなかったのです。イエスが歩んだ「別の道」は光が闇に打ち勝って闇を消し去るということではなく、闇のなかで人を照らす光です。出口が見えず座り込んで膝を抱える時、一緒にそっと傍に座って膝を抱えながら、でも共にそこにいてくれる、そのように寄り添う人の存在を照らし出す光です。それがわたしたちのもとに生まれた救い主です。神が贈り届けてくださった救い主です。
 「歌を歌おう悲しいときこそ、歌を歌おう寂しいときこそ、歌を歌おうこころ込めて、神の恵み深さがあなたに届くように」。

2022年1月2日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年1月2日(日)午前10時30分
降誕節第2主日
説  教:「マリアの心」
             牧師 髙田 太
聖  書:ルカによる福音書2章41〜52節
招  詞:ゼカリヤ書8章7〜8節
讃 美 歌:1(4節),271(1・2節),268(1・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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