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2021年4月4日(日)説教要旨   [説教要旨]

説教要旨 2021.4.4  マタイによる福音書 28:1-10 「ガリラヤへ」(髙田)

◆ イースターはガリラヤから始まったイエスと弟子達の旅の終着点、そして新たな出発点である。時は春。イエスと弟子達は過ぎ越し祭を目前にしたエルサレムに入った。そこからわずか一週間、その人の行くべきところは十字架であった。ファリサイ派や律法学者、神殿に仕える祭司達と衝突をしたイエスは、木曜日の晩、ゲツセマネの園で弟子ユダの手引きにより神殿の勢力に捕えられた。イエスはそのまま夜中にユダヤ教最高法院の裁判にかけられ、冒涜の罪で有罪を宣告される。日が明けると、ローマ総督ピラトに引き渡され、祭司達の望み通り十字架刑に処せられるのであった。

◆ 金曜日の朝からイエスは十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩かされて、そこで十字架に架けられた。12時頃から全地が暗くなりそれが15時頃まで続いた。暗い空、風の音の中、イエスは十字架上で、我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったかと叫び息を引き取られる。マルコ福音書はその時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと記しているが、マタイではさらに地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返ったと、神話的に記されている。

◆ イエスの十字架を見届けたのはガリラヤからイエスに従ってきた婦人達であった。日没の前、アリマタヤ出身の金持ち、ヨセフという人が来た。マタイ福音書はイエスの弟子で金持ちであったと記すだけだが、マルコ福音書では身分の高い議員であったと記されている。ヨハネ福音書によれば、「議員の中にもイエスを信じるものは多かった」し、ヨセフが遺体を引き取った後、その埋葬にニコデモというガリラヤ出身の議員が立ち会っていた。ニコデモとヨセフという最高法院の議員二人、ユダヤ教の高位聖職者がイエスを慕っていたのである。敵対者の中にもイエスの理解者がいた。しかし、マタイはヨセフを「議員」とは呼ばない。なぜなのか。

◆ ともあれ、安息日が始まる前にイエスはアリマタヤのヨセフが所有していた墓に、亜麻布に包まれて葬られる。週の初めの日の明け方、イエスの埋葬を見届けた婦人達のうち、マグダラのマリアとヤコブの母マリアが墓を訪れる。二人の婦人が墓を見に行くと、大きな地震が起こり、主の天使が天から降ってきて、墓が空であることと復活を告げ、ガリラヤでお目にかかれると言う。この出来事を弟子達に伝えに行く道すがら、彼女らは復活のイエスに出会う。

◆ 弟子達がガリラヤへ行き、イエスが指示しておかれた山に登ると、彼らはそこで復活のイエスに出会い、宣教への派遣を受けて福音書は終わる。最後に記された「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのは、福音書冒頭のクリスマス物語における天使の言葉、「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である」を思い起こさせる。マタイは復活を神話的に描き、天使を登場させることで、福音書の最後からその最初に読者を誘う。イエスが指示しておかれたガリラヤの山も、イエスが活動を開始して直ちに5章で、山上の説教の舞台として登場する。マタイ福音書において旅の終わりは、その旅自体の始まりにリンクしている。

◆ マタイが神話的にこの話を描いたのは、弟子達がイエスの死体を盗み出して、復活を吹聴したという批判に対抗するためでもあった。福音書を書いたマタイの時代にもそのような批判、疑いがあった。マルコ福音書にはそのように読まれる可能性があり、そしてそういう可能性はイエスの復活という出来事を死体の蘇りという超自然的な出来事に矮小化してしまう可能性があった。マタイはそれを避けようとしてマルコの記述を意図的に神話化したわけである。

◆ これに対して、ルカとヨハネの報告は少し違っている。マルコで復活を告げるのは「白い長い衣を着た若者」だが、マタイはこれを天使に変えた。これに対してルカでイエスの復活を告げるのは、「輝く衣を着た二人の人」である。そしてヨハネでは「白い衣を着た二人の天使」が登場する。墓にいたのは人なのか天使なのか、それは一人なのか二人なのか。こうして福音書を比較しながら読んでみて一つの可能性に思い至る。墓にいたのは二人で、イエスの遺体を葬ったアリマタヤのヨセフとニコデモではないか。この二人なら墓の位置も知っているし、墓を開けることもできただろう。ところがそのように書くと復活が捏造であるとする批判や疑いが生じてくる。彼らが空の墓の最初の目撃者であった可能性は十分にあるにもかかわらずである。

◆ いずれにせよ、空の墓とこれについての婦人達の経験、その報告が新たな旅の始まりとなったことは確かである。マタイ福音書は、「ガリラヤへ帰れ」、福音書の最初に帰れとする指示と、系図とクリスマス物語から始めて多くの旧約聖書の記事を引用することで、復活が理解できると考えている。そうであればこそ、教会は新旧約聖書を正典と定めて、毎週の礼拝でこれを読むことで復活の出来事とその意義を伝達し、また味わうことを続けて来た。わたし達もまたそうした旅を始める。

◆ しかし、これとは別の道もまた聖書には示されている。それはパウロの道である。彼は生前のイエスに出会うこともなければ、その教えを聞くこともなしに復活のイエスに出会い、復活の出来事の本質を体得して、これを福音として語ることができた。パウロは異邦人に、つまりはイエスを知らず、旧約聖書も知らない人々に福音を宣べ伝えた。そのために彼は復活の出来事の本質を語った。

◆ そのパウロの最も有名な教えの一つが、招詞として読んだ第一コリント書13章である。そこでパウロは愛の道を「最高の道」として紹介している。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。……不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。愛は、好きだということである。何が好きか。その対象は万事、すべて、あるいは世界である。世界が好きで、生きていることがよいと思える力、この愛が、つまりはこの世界を肯定する力がなければ、どんな知識があろうと、信仰があろうとも無に等しい。

◆ 肯定する力の反対は否定する力で、それは不安や恐れという形で表れてくる。あるいは、誰かを押さえつける力、そうであってはいけないという力があるが、それと肯定する力、愛は拮抗する。しかし愛は忍耐強い、負けることを知らない。すべてを受け入れるのだから妬まない、他のものをよいと思う必要がない。ありのままを受け入れていくから、自慢する必要もないし、高ぶることもない。そうだからこそ、どんな真実だって受け入れ、それが真実であることを喜ぶことができる。

◆ どうしてそんな愛を得ることができるのか。パウロはこう語る。神が御子を死に引き渡して愛を示して下さったから、その神を信頼することができるから、愛にとどまり続けることができる、と(ローマ8.31-39)。神への信頼は神が創られた世界への信頼である。世界を肯定する力、愛は、神の本質であり、復活の命それ自体なのである。

◆ マタイ福音書は旅の終わりに、ガリラヤへ向かうようわたしたちに告げていた。そのガリラヤでの活動の始め、イエスは諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆の病気や患いを癒やされた。復活の命を、愛の道を、信仰を誰かに伝え託すため、教会は歩む。福音宣教のための場所を設け続ける。そうして伝えられる復活の命、愛の道が、教えること、癒すことへと展開して行くことを福音書もまた示している。心を高く挙げて、いままたその道に、新たに歩み出して行くものでありたい。 

2021年4月18日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2021年4月18日(日)
復活節第3主日
説 教:「ほんとうのことがわかるまで」
    牧師 越川弘英

聖 書:列王記上17章17〜24節
    詩編116編1〜14節
招 詞:詩編68編20〜21節
讃美歌:25, 351(1番・4番), 479(1番・2番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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