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2019年4月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.4.7 ルカによる福音書20:9-19 「その農夫とは私のことか」   望月修治  

◆ 「チコちゃんに叱られる」(Don’t sleep through life!)というNHKの番組が人気を呼んでいます。5歳の女の子という設定のチコちゃんが、私たちの日常の中で誰もが当たり前に知っていることについて「それはなぜ」と問いかけ、答えられないと「ボーツと生きてんじゃねえよ!」と突っ込み、なぜを解き明かす。これが受けています。私はこの番組と聖書の世界とは共通しているものがあるなと思って見ています。聖書も私たちが当たり前のように語っていること、分かっていると思っていることの深い意味を掘り起こし、「なるほどそういうことか」と視点の転換を促すからです。例えば「愛すること」「幸せであること」「救われること」「休むこと」「罪ということ」それらについて「どういうこと」と問われたら、「えー」と言葉に詰まり、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と言われてしまうことになりかねません。物事の本質を聖書は解き明かし、私たちに提示してくれています。そこを読み解くと、聖書は生きることへの贈り物で満ちていることが納得できます。ひとつ気づけたら、あるいはひとつ読み解くと見える世界は変わります。それは奥義を体得するということでもあります。

◆ 今日の聖書の箇所にはいくつかの仕掛けがなされています。まずその箇所を挙げておきます。13節に二つ、17節に一つ仕掛けられています。13節の仕掛けのひとつは「わたしの愛する息子」という箇所、そしてもう一つは「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」という箇所の中で、「たぶん」という言葉が入れられていることです。それから17節では「イエスは彼らを見つめて言われた」という箇所の「見つめて」という言葉が三つ目の仕掛けになっています。

◆ 譬え話は次のように始まっています。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。」この書き出しはユダヤの人々と神との関係を的確に表現しています。一つは、ぶどう園は無償で貸し与えられのではなくて、賃貸しされたものであるということです。したがって農夫は主人の意向に沿って適切にぶどう園を管理し、契約に基づいて収穫の中から一定の割合で主人に納める義務を負っているということを意味します。加えて主人がぶどう園を貸したまま長い間旅に出ていたということは、主人が農夫たちを信頼して管理と収穫を委ねていたことを示しています。つまり主人は農夫たちに忠実であることを求め、期待していたということです。

◆ 収穫の時が来て、農夫たちの忠実さがどうであるのかが明らかになります。農夫たちが見せたのは忠実さではなく反抗でした。収穫を納めさせるために主人が送り込んだ僕を農夫たちはすべて追い返します。しかもそこで農夫たちが見せた反抗はエスカレートしていきました。最初の僕に対しては「袋だたきにして、何も持たせないで送り返し」ます。2番目に送られてきた僕に対しては「袋だたきにして、侮辱して何も持たせないで追い返し」ました。「侮辱する」という行為が付け加わります。そして3番目に送った僕に対しては「傷を負わせてほうり出し」てしまいました。「ほうり出す」というのは「送り返す」「追い返す」ということに比べ、扱いが一層暴力的になっていることを暗示します。反抗は回を追うごとに激しさを増したのです。

◆ 三人の僕を送ったにもかかわらず、農夫から何れも拒絶されてしまったぶどう園の主人は、「どうしようか」と考えます。そして出された結論は驚くべきものでした。自分の愛する息子をこの農夫たちのもとに遣わそうというのです。この「愛する息子」はイエスのことを指しています。ここでもうひとつの仕掛けが提示されます。「たぶん」という言葉です。主人は愛する息子を送るにあたって「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と思ったというのです。「たぶん」ということは確実ではないということです。愛する息子を送ったら確実に敬ってくれるという保証は主人にもないのです。敬ってくれるという期待はあっても確信はなかったのです。状況からすれば主人が送った僕を三人も手荒く扱い追い返した農夫たちが、主人の息子だからといって態度を変え、悔い改めて受け入れるという可能性はかなり低いと判断せざるを得ない場面です。そういう危険度の高い状況の中に「たぶん」という主人の側の期待にのみ根拠を置いて息子を送ったのです。主人の期待は跳ね返されてしまいました。息子を見た農夫たちは、跡取りを殺してしまえば財産は自分たちのものになると考え、息子をぶどう園の外に放り出した上で、殺してしまうのです。ここまでが譬え話です。

◆ イエスはここで譬えを終了させて、聞き手として前にいる祭司長や律法学者たちに問いかけます。「さて、ぶどう園の主人はどうするだろうか。」彼らが答える前にイエスは自ら答えを提示します。「ぶどう園の主人は、戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 譬え話の結末としてイエスが語ったことは、誰もがそれ以外の結論に達することはできないと言えるほどに当然のことでした。農夫たちによって愛する息子まで殺されたぶどう園の主人が、彼らに怒りの裁きを下すだろうということは、誰もが抱くであろう結末です。これを聞いていた人たちは「そんなことがあってはなりません」と言ったというのですが、「あってはなりません」とは、農夫たちが僕を追い返し、主人の息子を殺してしまうというようなことがあってはなりませんということなのでしょうか。それともぶどう園の主人が農夫たちを殺してしまうようなことはあってはなりませんということなのでしょうか。

◆ ここで三つ目の仕掛けが提示されます。「見つめる」(エムブレポー)です。この言葉は22:61でも使われています。ペトロがイエスのことを三度知らないと言ったとき、鶏が鳴いた。そしてイエスは「振り向いてペトロを見つめられた」とあります。イエスは見つめるのです。イエスとの関係を否定していく者を見つめるのです。イエスが人を見つめるとき、その視線に宿って行くのは切り捨てではありません。そこに宿るのは受け入れであり、赦しです。一緒にいる、どんな時も、どのような状況にあろうとも一緒にいるという救いへの招きです。

◆「ぶどう園と農夫」の譬えは息子の殺害に対する神の裁きを最終的な結末とはしていません。むしろ、息子が殺害されたことから、驚くべき救いの働きが始まっていくのです。そのことをイエスは詩編118:22の言葉を引用して提示していくのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」・・・・隅の親石は建物が建ち上がれば見えなくなってしまうけれども、しかしそれが外されれば建物全体が崩れてしまうその要の位置に置かれたものです。そのようなあり方で、そのような位置にいて貴方を支える、それが神の救いの働きなのだとイエスは言うのです。

◆「見つめる」という言葉はこの驚くべき救いの働きへと私たちの視線を向けさせるべく置かれた仕掛けです。しかし神がこの道を選ぶのは、人が悔い改めてくれる、変わってくれることの確かな保証があるからではありません。あるのは「そうあってほしい」という強い期待であり、願いだけです。それを示すのが「たぶん」です。「たぶん敬ってくれるだろう」という言葉です。人は変わるかも知れない、しかし変わらないかも知れない。その答えは見えていない。それでも変わるかも知れないというその一点の可能性に神は思いを絞って、「愛する息子」を送るというのです。イエスの十字架の出来事は、この神の思いを伝え続けています。

2019年4月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年4月21日(日)午前10時30分
復活節第1主日 イースター礼拝
説 教:「昨日と明日のあいだに」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書20章1〜18節
招 詞:エレミヤ書31章4・6節
交読詩編:30;2-6
讃美歌:25,327,326,524,91(1番)
聖歌隊賛美:Ave verum corpus,316
◎転入会式、聖餐式を行います。

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