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2019年2月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.2.3 ルカによる福音書5:33-39 「断食の作法」       望月修治     

◆ 岩手県盛岡の名物に「ぶちょうほまんじゅう」という和菓子があります。小ぶりの餅の中に、黒蜜がたっぷり入っているお饅頭です。もし不用意に途中で食いちぎると、中の黒蜜がたちまち勢いよく飛び出して、自分や近くにいる人の衣服を汚してしまう結果になるとのことです。食するコツは、上品な口つきをやめて、この餅を丸ごと一口にほうばることなのだそうです。あえて不調法な食べ方をしなければ、かえって不調法な結果になるというユーモアがあります。この名物和菓子のネーミングは、人前でそそうした時に「不調法しました」と言うのが盛岡の日常的な習わしとしてあることに由来しています。

◆ 元来、不調法とは理に合わない振る舞いや生き方を指す言葉です。ですから何よりも他者に対して礼を失することが不調法です。人は他者に対する振る舞いがどうであったかを気にかけ、不調法になっていないかどうかに過敏になります。そのように私たちは人に対しては敏感です。では、人を超えたものに対する不調法についてはどうでしょうか。

◆ 今日の箇所の冒頭にこうあります。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」ある時人々がイエスにそう言ったのだとルカは記します。ヨハネとはバプテスマのヨハネのことですが、ヨハネとその弟子たちは非常に禁欲的な集団でしたから、よく断食をし、そして神への不調法を知っていました。また「ファリサイ派の弟子たち」とも書いてありますが、彼らは神への不調法となる行いをすることを恐れ、戒めを守る点でとても厳格であった人たちです。ですから人々はイエスの弟子たちの振る舞いが気になったのです。ファリサイ派の人もバプテスマのヨハネとその弟子たちも、みんな神のために断食をし苦しみを捧げているのに、どうしてあなたの弟子たちは断食をしないで飲んだり食べたりしているのですかと人々はイエスに問いかけました。それは神への不調法だというのです。
当時のユダヤ人たちが、信仰生活の敬虔さを示す基準、神への不調法をしないための心得としていたのは「施し」と「祈り」と「断食」です。 

◆ ところがイエスや弟子たち、またその仲間たちは食事が大好きでした。7:34によれば、そのようなイエスの振る舞いを見て「大食漢で大酒飲みだ」とあげつらう人々がいたというのですから、かなり頻繁に人々が目にしていたイエスの姿であったといえます。質素な生活をして断食もきちんと行って身を律して生活している。そのように生活し、生きることが信仰生活の敬虔さだと思っていたユダヤの人たちからすれば、わいわいと賑やかに食事をしているイエスや弟子たちの姿は不可解で異質なものであったはずです。それゆえ「あなたの弟子たちはなぜ断食をせず、飲んだり食べたりしているのか」と問うたのです。

◆ イエスは断食をしなかったわけではありません。4章1節以下によれば、イエスは伝道活動を始める前に、荒れ野で悪魔から40日間誘惑を受けたのですが、そのとき何も食べなかったと記されています。使徒言行録12章2節と3節には、初代の教会の人たちも断食をしていたことが記されています。けれども大事なことは、断食するということが、イエスや弟子たち、そして教会に集う人たちの旗印にはならなかったということです。断食して生きること、あるいはそれをなるべく日常化して行うことが、信仰生活、イエスを救い主だと信じる信仰に生きる者の基本的な姿勢を表すのではないということです。むしろ喜んで食事をする、楽しんで食事をすることがイエスと弟子たち、またイエスを救い主だと信じる信仰に生きる者の基本的な姿勢なのだというのです。

◆ そのことをイエスは次のように説きました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」断食をしてはならないとイエスは言ったのではありません。婚礼の席で、断食しなさいと言えますかというのです。花婿がやってくる。それを迎えている婚礼の席の人々に向かって、あなたがたは断食しなければいけないというのは、無茶苦茶な要求だということは誰にでも分かります。喜びに溢れている、歌をうたわずにはいられない、そういう状況で、断食をするなど考えられないではないか、とイエスは語りました。なぜ出来ないのかといえば、花婿がいるからです。田舎の方などでは、おそらく他に大きな楽しみもなかったでしょうから、婚礼は大きな楽しみの日でした。当時のユダヤの慣習によって、婚礼の式は1週間程度続いたようです。その間は喜びの時ですから、断食は免除されていました。今日の箇所で、花婿というのは、イエスのことであり、また神のことをも指しています。イエスはヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々がしている断食を非難しているのではありません。イエスの弟子たちはなぜ断食をしないのか、その理由を示すのです。イエスの弟子たちは断食を軽視しているからしないのではなく、福音に出会って、婚礼の席にいるような喜びが満ちているから断食をしないのです。

◆ 一方、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、神の働きが見えていないというので悲しみ、嘆いていた人たちです。断食はその心の表現なのです。ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人たちも、そしてイエスに問いかけている人たちも、すでに婚礼の席にいるのに、なぜイエスの弟子たちのことを、断食をしないと言って責めるのか。イエスがここにいるのに、神の働き、神の意志はイエスの言葉と働きにおいて示されているのに、なぜ神が働いていないかのごとく、嘆いて悲しんで断食をするのかとイエスは問いかけるのです。

◆ ただし、人はいつも神の働きを身近かに生き生きと感じて歩めるわけではないということも現実です。そのことをイエスは自らが十字架に掛けられ、弟子たちのもとから去ることに重ねて語っています。35節です。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には彼らは断食をすることになる。」イエスがいなくなる、神の働きを感じられなくなる。そうなれば、喜んで食事をすることなど出来なくなる。食事もろくに喉を通らないという状況に立たされてしまうことになります。

◆ しかし福音書の物語は、もう一度食事の場面を描き出し、私たちに贈物として届けてくれるのです。その場面はイエスの復活物語の中に描かれています。甦ったイエスはさまざまな人たちに姿を現し、そして一緒に食事をするのです。エマオに向かっていた二人の弟子に甦ったイエスは同行し、一緒に食事をします。その後エルサレムにいた弟子たちにも姿を現し、食卓に出されていた焼いた魚を食べます。さらに使徒言行録の冒頭では、甦ったイエスが40日にわたって使徒たちに姿を現し、一緒に食事をした、それも何度も食事をしたと記録されています。イエスは喜んで、多くの人とそれぞれ食事をしたというのです。それは人々に神が自分たちと一緒にいて働いて下さるということを体験として味わわせるためでした。

◆ そのようにして見えないけれども自分たちと共におられる神を知ったときに、人々は何をしたか。食事をする群れになりました。初期の教会で人々は毎日一緒に食事をしては、仕事に行き、そして教会にまたもどって食事をしたのです。食卓を共に囲むとき、イエスが生きておられる、神が共におられるということを喜びとして実感したのです。喜びこそが彼らの生き方を変え、支え、育んだのです。

2019年2月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年2月17日(日)午前10時30分
降誕節第8主日
説 教:「秘密の扉」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書8章4〜15節
招 詞:箴言3章1〜4節
交読詩編:147:1-11
讃美歌:24,208,441,438,91(1番)

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