SSブログ

2018年11月4日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.11.4 秋の永眠者記念礼拝 創世記9:8-17「嵐のあとに」 望月修治      

◆ 一人の人の死の意味を理解する、納得するというのはそう簡単なことではありません。とりわけ人生半ばにおける自分の夫、自分の妻、自分の子供の死、あるいは親しい友人など愛する者の死に出会ったとき、人は特に強く「なぜ」と問い、その答えを激しく求めます。旧約聖書の創世記には、古代の人々が「なぜ」と疑問を抱き、その事柄の始まりに遡って答えを見出そうとした物語がいくつも記されています。原因譚と言います。

◆ 創世記の6章からは「ノアの洪水」物語が記されています。水は生命の象徴です。しかし水は、生命ではなく、逆に破壊と破滅をもたらすものの象徴でもあります。特に「大水」は人間を飲み込み死に至らせることを旧約聖書の人々は知っていました。それは現代の私たちにとっても同じです。「大水」あるいは「洪水」は人間の経験する危機を象徴するものです。古代オリエント世界で、チグリス・ユーフラテス川やナイル川が氾濫すると、大地の全てが水に沈んでしまったかのようになり、多くの命が失われました。多くの悲しみと「なぜ」が人々の魂の中を巡りました。そこには神の思いを見いだせるのか、古代の人々の魂にまで及んだ問いかけが「ノアの洪水」物語に宿っています。

◆ 本日の聖書日課である創世記9章は「ノアの洪水」物語の締めくくりの部分です。創世記の物語によれば、世界を創造した神は、人間たちの間に悪が増し広がるのを見て、人間を造ったことを後悔し、「わたしは創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」(創世記6:7)と言い、洪水によって人間もその他の生き物も全て滅ぼし去ろうとします。ただノアだけは「神に従う無垢な人であった」(創世記6:9)ので、神はノアに箱舟を造らせます。箱舟が完成するのを待ったかのように、激しい雨が40日40夜降り続きました。全世界は水に覆われ、箱舟に乗り込んだノアの家族とひとつがいずつの動物たちを除いて、全ての生き物は水の下に没してしまいました。人間の悪や罪のゆえに、神が洪水を起こしたという話自体は、旧約聖書だけではなく、他のメソポタミアの地域にも残されています。現在のイラクにある遺跡から発掘された粘土板には、ノアの洪水物語とほぼ同様の物語が楔形文字で記されていました。そのようなメソポタミアの洪水伝承の方が、創世記の洪水物語よりも古く、それらを基にして「ノアの洪水」物語は成立しました。

◆ しかし、そのような洪水伝承と旧約聖書の話とは、決定的な違いがあります。それは創世記の場合には、ただ人間の悪に対して神が怒り、洪水を起こしたのではなく、そこには神の深い痛みが表されているからです。6:5-6にこう記されています。「主は、地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」 神が心を痛める、そのようなことは、多神教の世界では考えられないことです。なぜなら、多神教のメソポタミアの神話では、創造の神と、洪水を起こす神とは別々の神であるからです。しかし、聖書の神は、徹底して唯一の神であり、人を創造しこれを愛そうとされたけれど、その思いに人は応答せず悪を行うので、審かざるを得ない。ここに神の人間に対する痛みが生じるのです。

◆ この物語に宿る奥深さは、洪水後のエピソード、嵐のあとに見いだすことが出来ます。8:20-22にこう記されています。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちからとり、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主はなだめの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。』」 一方6章、7章には、神が人間たちの間に悪がはびこって広がり、納まる様子がないために、大洪水を引き起こしたと書かれています。そうであるならば、洪水後の物語の展開とすれば、洪水によって神が悪を一掃して、人間も心を入れ替えて善を行うようになるので、もう二度と大地を呪うことはしないという筋立てになるのが妥当なはずです。ところが創世記にはそのようには書いてありません。洪水のあとも、人間はちっとも変わらないだろう、人が心に思うことは幼い時から悪いし、それはこれからも変わらないだろうということを認識しながら、でももう二度と生き物をことごとく打つことはしない」と約束するのです。

◆ 大洪水によって変わったのは、人間ではなく、神です。この「神の心の変化」こそが、洪水物語の中心テーマです。そのことは6章の記事と9章を読み比べてみるとはっきりと浮かび上がってきます。6章には人間たちの堕落や不法行為が納まらないゆえに、神は「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」(6:11-13)と語られており、人を滅ぼし尽くすのだと神は決意しています。ところが9章では7節「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と語っています。明らかに洪水の前と後で変わったのは、人間ではなく神です。ノアの洪水物語の主人公はノアではなく神です。そのことは6章から9章において、ノアが一度も言葉を発していないという点に明確に示されています。物語の中で言葉を発しているのは神だけです。これは大変特徴的なことです。「ノアの沈黙」が続くのですが、ノアにも様々な迷いや不安があったはずです。汗水流して箱舟を造ることに何の意味があるのかと自問自答したはずです。しかし洪水物語には、ノアの内面のつぶやきやうめきは、まったく触れられていません。そのかわり次のように記されています。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22)。ひたすら神に聞き、神に従うノアの姿を浮き彫りにしています。そしてこの生き方に神は心を動かし、思いを変化させるのです。人間が悪を行うことをやめようとしないが故に洪水を起こし裁く。しかしそのことに心を痛め、またノアの生き方に心を動かし、人間は変わらないかもしれないが二度と打つことはしないと心を変える、そのような神をこの物語は語っています。

◆ そのことをもう一つの象徴を用いて語ります。それは「虹」です。13節にこう記されています。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」神がノアと契約を結んだことが記されています。ただしこの契約は神とノアが対等な立場で結ぶものではありません。今後二度と洪水によって地を滅ぼすことをしないという、神からの一方的な契約でした。そのことはこのときノアが一言も発していないことからも分かります。人間の罪がぬぐい去られ、過ちがなくなったからではなく、神が、悪が広がる故に地の全てを滅ぼすという最初の決意を変えたのです。そして神は空に雲を沸き起こさせ、そこに虹を置いて、契約のしるしとしました。虹をギリシア人は「天と地の架け橋」と考え、ユダヤ人は「戦いの弓」と考えました。旧約聖書の原語であるヘブライ語では、虹は「戦いの弓」と同じ言葉です。古代のメソポタミア地方では、全地が水に覆われてしまうような大規模な洪水が起こったようです。その恐ろしい雨のあと、空にかかる美しい虹を見て人々は神の働きに思いを巡らせたに違いありません。そして虹とは、神が戦いの弓を手に取らず、手放していることを示していると人々は考えたのです。そしてこの虹が現れた時には「契約を心に留める」ということが二回繰り返して語られ、強調されているのですが、いずれも虹を見て契約を繰り返し思い起こすのは人間ではなく、神自身なのです。

2018年11月18日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年11月18日(日)午前10時30分
降誕前第6主日 学校法人同志社創立143年記念礼拝
説 教:「志を継ぐー自由教育、自治教会
両者併行、邦家万歳」
神学部教授 原 誠
聖 書:エフェソの使徒への手紙
3章 14〜21節
招 詞:出エジプト記3章11〜12節
交読詩編:77;5-16
讃美歌:25,412,418,394,91(1番)
◎礼拝場所は同志社礼拝堂です。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。