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2018年7月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.7.1 ガラテヤの信徒への手紙5:2-11 「自由の処方箋」    望月修治    

◆ ガラテヤの信徒への手紙は「キリスト者の自由のマグナ・カルタ(大憲章)」と呼ばれてきました。それは5章1節の「自由を得させるために」、あるいは13節の「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです」というパウロの言葉が聖書の福音理解のとらえなおしを促すことになったからです。

◆ その代表的とも言える出来事の一つは、マルティン・ルターの宗教改革運動です。1517年10月31日に、ルターは95ヶ条からなる質問状を、当時の習慣に従って、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲げて、討論を求めました。ルターが望んだのは、聖書の福音の再発見であり、人はどうして救われるのかという素朴な、しかし根元的な問いについて論ずることでした。ルターが起こした運動を、当時の教会は力で押さえ込もうとしました。ルターはローマ教会から破門・追放されます。その改革の激しい運動のさなか、ルターは宗教改革をめぐるいくつかの論文を発表し、自分たちの立場を訴えました。その一つが「キリスト者の自由」と題された論文です。1週間あまりで書き上げたという、わずか20数ページの小さな論文なのですが、キリスト者とは何なのか、キリスト教信仰を持って生きるとはどういうことなのかという聖書の信仰の真髄を明らかにする内容の論文で、全世界に大きな影響を与えるものとなりました。この論文の冒頭で、ルターは2つの命題を掲げます。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」 それから「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」という命題です。この二つ命題は、ガラテヤの信徒への手紙5章、特に1節と13節に基づいているのです。そこには宗教改革の時代だけではなく、今の時代を生きる私たちへのメッセージが語られていると思うのです。

◆ この二つの節、5章1節「キリストはわたしを自由の身にしてくださったのです。」と13節「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに使えなさい。」を読み比べると分かりますが、ここでは一方で「自由の身にしてくださった」と言い、もう一方で「自由を愛によって仕えるために用いなさい」と言い、矛盾した勧めが同時になされています。自由と仕える、この二つは相入れない概念です。しかし聖書は、自由でありつつ、仕える者として生きよと勧めているのです。このことは「自由である」ことの意味を吟味し直すことを私たちに促します。

◆ パウロはイエスの福音を受け入れて新しく歩み出した人間の生き方の特徴を「自由」という言葉で表現しました。自由はギリシャ語でエリューセリアと言います。そのもともとの意味は「奴隷ではない」ということです。古代ギリシア人にとって、都市国家ポリスの市民権を持つことがエリューセリアすなわち自由であるということでした。都市国家の市民権をもつことは、政治的にも社会的にも身分的にも自由であり、外側からの制限や束縛を受けないということです。しかしながらギリシアの都市国家の生活と文化を支えていたのは「自由人」よりもはるかに多い「奴隷」たちでした。奴隷たちがこき使われて社会と経済を支えていたから「自由人」が「自由」を謳歌できたのです。ですから彼ら自由人の自由は、不自由な人がたくさん存在することによって支えられていた自由でした。しかしこれは明らかに偽りの自由です。 

◆ 人は誰かと繋がり、関係を結び合うことで、はじめて一人の人間として存在し、生きる意味、生きる価値、生きる目的を見出し、納得した人生を歩む、それが聖書の人間理解の基本です。ただ、誰かと一緒に生きることは、お互いの自由を譲り合わなければなりません。自由だから何をしてもいいというわけにはいきません。束縛から解放されることが自由だというのであれば、私たちとって自由とは、言葉として美しいけれど、現実にはいつでも縛りや制限があり、絵空事に過ぎないことになります。
◆ 今日の箇所でパウロは「自由を得る」ということを律法との向き合い方、受けとめ方の問題と関連づけて取り上げています。「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうとも、キリストと縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みをも失います」と述べています。律法はユダヤの人たちにとって、長い間、神と自分たちとのつながりがいいのか悪いのか、的を得ているのかいないのかを判断する拠り所でした。でもそれは違うというのです。この2節〜12節を囲むように、1節と13節で「自由を得るために」と語っています。ではどのような意味で「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」と語ったのだろうかと考えさせられます。律法という掟、ルールなど守らなくていい、それが自由ということなのでしょうか。

◆ イエスが語った譬え話の中に、「自由の身にする」ということはどういうことか、すなわち「自由の処方箋」を語っている物語があります。それは「放蕩息子」のたとえ(ルカ福音書15:11以下)です。ある人に二人の息子がいました。弟は父に自分の財産の分け前を下さいと頼み、そのすべてを金に換えて、遠い国へ旅立ったというのが、この譬え話の始まりです。長男優先のユダヤ社会では、弟の受け取れる父親の財産は、兄の半分以下と定められていました。ですから、弟が自分の受け取れる分け前を早くもらって、町に出て、一旗あげようとした気持ちは理解できるところがあります。単なる勝手気儘な行為ではなかったはずだと思います。父と兄の許を離れ、与えられた全財産を懐に入れて遠い国に旅立ったとき、この弟の心には、今や自分は「自由」だ、「自由」を得て、新しい歩みを始めるのだ、という思いがあったはずです。彼にとっては「自由への旅立ち」であり、父の家を離れれば離れるほど、自由が増す思いがあったに違いないのです。しかし聖書は「自由」とは外側の自由に留まるのではなく、内側の自由も問われる。心のあり方がどうであるのかも問われるのだというのです。弟は町で放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いして、食べることにも窮し始めます。そこで我に返った弟は、父の許に帰ることを決心します。彼はもと来た道を引き返して、父の許に向かい、父はその弟息子を温かく迎えたというのです。外側の自由を求めて旅だった同じ道を、弟は内なる自由、心を生き生きと弾ませてくれる自由が実は父の許での暮らしの中にあったことに気づいて、父の許に帰っていったこと、そして父は大切なことに気づいて帰って来た弟息子を自分から駆け寄って迎えたのだと、この譬え話は語っています。

◆ この譬え話の中の弟息子のように、束縛されないことが自由であると考える私たちに対して、真実の自由は、自らの意志によって、必要な時には、自分の望みや行動をあえて抑えることも含めて、なすべきことを決断する自由だと聖書は語るのです。人は生きる限り、必ず何らかの制約や条件のもとに生きなければなりません。生まれつき逃れることのできない条件を背負っている人もいます。病気になったり、家族関係で苦しむ人もいます。思わぬ災難に遭う人もいます。人間の自由とは、このような制約や条件から解放されることでは必ずしもないのだと思います。そうではなく、こうした状況や条件に対して自分のあり方を判断し、選択する自由です。それが聖書の語る「自由」の処方箋です。

◆ ナチス・ドイツのアウシュビッツ収容所での体験を綴った「夜と霧」の著者であるヴィクター・フランクルはこう語っています。「人間の自由とは、諸条件からの自由ではなく、それらの諸条件に対して、自分のあり方を決める自由である。」

2018年7月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年7月15日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第9主日
説 教:「今や、恵みの時、
今こそ、救いの日」
牧師 髙田 太
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅱ
6章1〜10節
招 詞:ローマの信徒への手紙5章5節
交読詩編:18;26-35
讃美歌:26,19,508,452,91(1番)

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