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2015年8月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年8月16 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第13主日
説 教:「完全な律法」
牧師 髙田 太
聖 書:ヤコブの手紙
  1章19~27節(新約p.422)
招 詞:マタイによる福音書5章3-10節
讃美歌:25、17、291、355、91(1番)
交読詩編:119;73-88(p.235上段)

※礼拝は、同志社大学神学館礼拝堂にて行われます。
暑い日が続いていますので、お身体に気を付けてお過ごしください。



2015年8月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.8.2 平和聖日  ローマの信徒への手紙12:9-21「隣人へ」            

◆ 8月を迎えました。戦後70年になりました。昨年の全国戦没者追悼式の翌日、朝日新聞の「天声人語」に次のような言葉が載っていました。「きのう東京であった全国戦没者追悼式の参列予定者には、3年続けて戦没兵の父母の名前はなかった。妻も16人で過去最小となった。戦後の時を死者と分ち持ってきた人が、いよいよ減りつつある。記憶する人も死に絶えたとき、死者は真に死ぬという。そのいわれに従えば、戦没者は続々と『真の死者』になりつつある。」

◆ 敗戦から70年を迎える今、戦争のことを知らない世代が圧倒的に多くなりました。戦争を記憶する人が少なくなることが、不戦への誓いを失わせるとしたら、これは深刻な問題です。国会では安保関連法案が衆議院で強引に採決され、今、参議院で議論が交わされています。憲法違反だと多くの憲法学者が指摘し、為政者の判断でいかようにも戦う範囲が拡大してしまう戦争法案としての性格が明確になり、法案への反対のデモや声が広がっています。衆議院で安保関連法案が可決された翌日の新聞の読者の「声」欄に、和歌山県で農業を営む72歳の方(田端功さん)の投書が掲載されていました。「安保関連法案に賛成する諸君。自分の息子たちに銃を持たせよ。少なくとも、その覚悟があるのか。他人を、自衛隊員を、当てにしているのではないか。それは虫が良すぎる。ずるい。自衛隊の諸君。今度の海外派遣は身が危ないと思ったら即刻除隊しなさい。死んでは何にもなりません。自分のひとつだけの命、時の政権の犠牲になりなさるな。どんなに恭(うやうや)しく奉られようとも、何にもなりません。名誉なんて思うのは愚の骨頂です。米国はいつも地球のどこかで戦争をしているような国です。そんな国と一緒に戦争をするなんてナンセンス。やがては罪のない子どもや女性たちを殺すことになり、日本の子どもや女性たちが殺されることになるでしょう。無限の憎悪が生まれ、やがてテロが日本中に起きるでしょう。そしてその時、安倍晋三首相は言うのだろうか。『国民の命と財産を守るために仕方なかった。国民の皆さん、理解してほしい』。そうならないように祈っている。」

◆ 私たちの国の首相は、国民の命と財産と守るために切れ目のない安全保障体制を作るのだと言い続けています。しかし彼ら為政者たち、安保関連法案に賛成する国会の議員たちは自分の命は差し出さない、あくまで安全圏に置いておいて、他者に命を投げ出せ、ささげろと言う。戦争はいつもそうでした。為政者たちだけではありません。武力の必要を声高に主張するとき、おそらく人は自分の命を差し出す事態を想定してはいません。誰かが、自衛隊員が戦う、自分は安全圏に身を置くことを前提とするから、そう言えるのです。戦争の問題を忘れないということは、平和の問題を真剣に考え、取り組むことと固く結びついています。平和は政治的問題であり、国際問題であることは言うまでもないことですが、しかし、何よりも人間の問題であり、人の暮らしに直接関わる身近な問題なのです。

◆ 本日の聖書日課はローマの信徒への手紙12章です。18節でパウロは「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とローマの教会の人たちに書いています。新約聖書の平和を表す言葉は「エイレーネ」です。エイレーネという言葉で表される平和とは、単に平穏無事であり、戦争や争いのない状態を意味するのではありません。イエスは語っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ福音書14:27)わたしたち人間は武力で守る平和論を盾に戦いを繰り返してきました。わたしたちの国の為政者は今、またその道を歩もうとしています。しかしイエスが示した平和は、相手を打ちのめすことで守る平和ではありません。逆に自らが十字架に死ぬことさえも負うことによって他者へのとりなしと和解を生み出そうとする道です。「わたしの平和を与える。ただしわたしはこれを世が与えるように与えるのではない」というイエスの言葉はそのことを意味しています。そしてイエスはその平和を作り出す者は幸いであると語りかけ、そのように生きていくことを強く促し続けました。平和を作り出す。それはわたしたちがお互いに違いに寛容であることです。エフェソの信徒への手紙(2:14-15)ではその違いを「隔ての壁」と表現していますが、その壁をすっかり無くすことは難しくても、できるだけ低くし、どんなに小さくてもよいから協力をはじめること、それが「わたしの平和を与える」とイエスが語った道を歩み出すことなのだと思うのです。

◆ 今日の箇所はその道を歩むことはどう生きることかを語る言葉で満ちています。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(10節)、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう務めなさい。」(13節)「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14節)「喜ぶ人と共に喜び、泣く人とともに泣きなさい。」(15節)「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。」(16節)「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(17節)「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」(19節)

◆ いずれもお互いの「隔ての壁」を低くして、つながりを作り出し、どんなに小さなことでもいいから協力を始めることを促すものです。イエスが歩んだ道、そこで示した生き方、命の用い方にこそ、神の御心が示されている。そのイエスが歩んだ十字架の道は神の救いを示す道であった、イエスは救い主だと信じる信仰に私たちは生きています。それは「平和を作り出す」ことを目ざして生きることに結びついています。平和を作り出すとは、神によって創造された者が、創造された世界と人間を、隣人を破壊し、生きることを損ない、命を奪うことは許されないことであるという信仰に立つこと、そしてイエス・キリストを通して示されている神の御心、わたしたちひとりひとりを大切な存在として生かすことを決して止めない神の愛に押し出されて、それぞれの重荷を負い合い、苦悩を少しでも分かち合う者として一緒に歩もうとすることです。隣人へのそのような関わり方を実現していこうとする意志が「平和を作り出す」道となるのです。

◆ 1963年8月28日にワシントンで、人種差別の撤廃を求めてマーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとするワシントン大行進が行われました。そのときキング牧師はI have a dream、わたしには夢があると訴えました。「わたしには夢がある。それは、いつの日か『谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。』(イザヤ書40:4-5)ことである。これが私たちの希望なのである。こういう信仰を持って、わたしは南部に帰る。こういう信仰があれば、わたしたちは絶望の山から希望の石を切り出すことができるのである。こういう信仰があれば、わたしたちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである。こういう信仰があれば、わたしたちは共に働き、ともに祈り、ともに闘い、いつかはきっと自由になれると信じつつ、ともに自由を勝ち取るために立ち上がることができるのである。」

◆「主の栄光が現れるのを、肉なる者は共に見る。」これは信仰の言葉です。神の助け、神の支えを信ずる信仰に立って、「平和を作り出す」務めを担うことに連なる者であり続けようと強く思っています。

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