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2022年12月11日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ルカによる福音書1章5~25節 「沈黙から讃美へ」 菅根 信彦

★ 今朝の聖書個所は洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。「洗礼者ヨハネの誕生と命名物語」(1章57節以降)と「ザカリアの賛歌」(ベネディクトゥス)と合わせて「先駆者ヨハネ誕生の物語」となっています。ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司ザカリアは神殿の務めに従事していたところ、くじに当たり、聖所に香をたく栄誉ある奉仕の場が与えられます。当時のエルサレムの神殿は、2万人以上の祭司がいて24組に分かれていました。アビヤ組とはその一つの「祭司集団」です。1組は年2度ほど、1週間の務めが順番に当たります。当番の週には、神殿の聖所に入って香をたき祈るものがいて、その聖所に入るものは朝晩くじ引きで決めて務めに入ることになっていました。

★ 祭司ザカリアは、妻共々、「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)という人でした。彼は聖所に入った時、天使ガブリエルによって神のみ告げを受けます。「恐れることはない。あなたの願いは聞き入れられた、あなたの妻エリサベトは男の子を産むであろう」(13節)と言われます。しかし、彼は、高齢ゆえに「そんなはずはない」と告知を疑います。その結果、「口を利けなくなり、このことが起こるまで話すことができなくなって」(20節)いきます。

★ この「ヨハネ誕生の予告物語」を含む「先駆者ヨハネ誕生の物語」は、史実というよりもルカ福音書による寓話です。この物語の展開は、明らかに、信仰の父と言われたアブラハムとその妻サラの間にできた「イサク誕生の物語」(創世記17~18章)を下敷きにしています。信仰の父であるアブラハムも、正しい人祭司ザカリアも、神のなさろうとする業に疑いと不信を持つのです。ルカ福音書は、創世記の「イサク誕生の物語」ベースに、「人間とはこういう者だ」との意味を込めて「人間の原型」を語ろうとするのです。つまり、人間とはどんなに主の掟に正しく生きようとしても、人間としての弱さのゆえに、信じきることができない存在であること。そして、人は自分の力を越えた神の側からの働きかけを通して、実は神と出会わされていくことを告げるのです。

★ さらに、この物語は「イエスの誕生に関する物語」と対比されるように、「救い主イエスの物語」と「先駆者ヨハネの物語」がパラレルで構成されていることが分かります。まるで、ヨハネが先駆的に道を切り開き、イエスの物語がその後で展開し語られるといようなパラレルな物語配置となっています。ルカの著者の整った、美しい文学表現が展開しています。もちろん、いずれの場合も「救い主イエス」が「先駆者ヨハネ」に対して優位に置かれ、イエスの方が物語の内容も豊富で意義深いものになっています。「救い主イエス」と「先駆者ヨハネ」の役割の違いが明瞭になっています。先駆的ないわば預言者的な道標の役割に徹したバブテスマのヨハネの働きと、救い主であるイエスの存在が繋がり、救い主到来という神の約束が確かに実現したことを強調しています。

★ そして、この両者のパラレルの物語の配置によって、旧約時代より、長い歴史の流れの中で、人々が救い主を待ち続けたことが浮き彫りにされます。同時に、今やその約束が実現するという希望を高らかに賛美するには、「待つ」ことの大切さが示されるのです。ザカリアは、救い主イエスの道備えをする先駆者ヨハネの誕生を待つ間、「言葉を発すること」を止めさせられます。「沈黙」を強いられます。神の言葉への疑いゆえの裁きでしたが、見方を変えれば、「待望の救い主誕生」である「神の約束の成就」をじっと静かに待つ、かけがえのない時として備えられた時であったとも言えます。まさに、ザカリアは語ることを閉ざされた中で、神と出会わされるような経験をしていくのです。そして、板書で「この名はヨハネ」(63節)と命名した時、彼は「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と綴られています。それが、「ザカリアの預言(ベネディクトゥス)」です。

★ 演劇家・教育者の竹内敏晴(1925~2009年)は、生後すぐに難聴になり耳がまったく聞こえなくなった後、薬による治療効果で徐々に片耳が聞こえるようになりますが、一般には自然に済んでしまう言語習得を意識的に自力で行わなければならなかったという特殊な経験をお持ちの方でした。その間、培われた鋭敏な感覚により、人と人とが声やことばを本当には交わし合ってはいないこと、つまり触れ合っていないことに気づき、演出家への道を歩み、教育者としても活躍された方です。言葉と体を一貫してテーマとして生涯を終えた方です。その著書『話すということ(ドラマ)』(国土社・1985年)で、彼は「話すという作業には、二つの方向の過程が含まれる」ということを語っていました。つまり、語るということは、自分に触れること、表現する内容を創り出すこと。そして、もう一つは、発せられる言葉が、他者に触れること、すなわち、他者に確かに伝わっていくようです。もちろん、この二方向は、明確に分離はできないものです。しかし、話すということ(ドラマ)には、「自分自身に向かい、発する内容を創り出すこと」、そして、「他者に伝え、他者を動かしていく」「共鳴」させていくことの二方向があるのです。語ること、話すことの意味、あるいは、広く表現し、共感していくことの大切さを改めて考えさせられました。

★ ザカリアはおおよそ10ヶ月間の沈黙を強いられていきます。話すことには二つの方向があるとすれば、ザカリアは、この期間、言葉を失ったのではなく、本当の自分が発すべき言葉を見つけるための沈黙の期間であったのです。天使のみ告げを拒絶した自分と向き合い、その罪を見つめ、内面から湧き上がる本当の言葉を探していたのではないでしょうか。それは、あたかもイスラエルの民が長く、救い主を待ち続けるように、その時がザカリアの10ヶ月であったのだと思います。待望した自分の子どもが生まれることを深く待ちつけるという意味でも、それは深い祈りの時であったに違いありません。ザカリアの賛歌は畏れと静まりという充満から生じた言葉であったのです。オーケストラの第一音が、静寂の中で出てくるのとおなじように、神讃美は、静寂の祈りの中から生まれてくるのです。

★ 慌ただしく時間に追われる私たちですが、ひと時静まり、聖書を読み、自分を見つめつつ、神の憐れみの出来事を高らかに賛美する備えをしていきたいと思います。そして、主イエスの降誕の喜びを、多くの人々に伝えていきたいと思うのです。

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