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2022年10月23日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ルカによる福音書12章13~31節 「ただ、神の国を」 大垣 友行

 本日の聖書箇所として与えられたのはルカ福音書です。二つのエピソードが記されています。前者のエピソードでは、群衆の一人が遺産の分け前を求めて、イエスに裁定を願い出ています。イエスはそれに対して、たとえ話をもって答えておられます。曰く、金銭があったからと言って、自分の命を永らえ得るかどうかは、決して分からない、いくら財産を蓄えて、これから先の数年間の間の生計が立てられたとしても、その先にどんなことが待っているかは、誰にも分からないと。もし神様が、その人の命を今夜取り上げると決めたならば、たとえ富を積んでいたとしても、そのことは究極的には何の保障にもならない、ということが示されています。

 さて、後者のエピソードで、イエスが説いておられるのは、富を自分のために積むのではなくて、天に積むべきということです。具体的には、自分の持っているものを売り払って、施すことです。財産、事物へのそういう執着を離れることによって、本当に大切なもの、つまり、神の国を求めていくことができるということです。そして、そうした執着心を持つ必要がないことは、カラスや野の花などを見れば分かる、ということになります。それらは決して、人間のように、将来の行く末について思い悩んで、生活が少しでも楽になるようにと、苦労しはしません。そうしたことをわざわざしなくても、神様が十分に養って、生かしてくださるからです。神様は、そうした自然の花々よりも、わたしたち人間を愛してくださっているのだから、なおさら、執着して思い悩む必要はないではないか。そのように、教えておられるのです。

 この二つのエピソードを並べて読む時に、キーワードになってくるのは、やはり富ということになるでしょう。ですが、その根底に横たわっているのは、生活上の余裕や楽しみを持ちたいと願う心であり、究極的には、自分の命を少しでも永らえたいという欲求です。そうした執着心が、人間の思い悩むことの根底にあります。遺産の分け前が欲しいとか、蔵に財産を溜め込もうとか、何を食べようかとか、何を着ようかとか、すべてが、自分自身のことについての思い悩みになっていきます。ですが、そのような時に、神様が造られたものを見て、それらが神様によって養われていることを思う時に、そうした執着や悩みが、実は本質的なものではないことに気付かされることになるのではないでしょうか。その意味で、財産など、何事かに執着することは、そうした神様の御心を忘れてしまうことにも繋がっていきます。

 今日、教会暦の上では、降誕前の主日に入りました。降誕前節は、長かった聖霊降臨節、すなわち、教会の歩みを覚える時が終わり、教会暦が新しく始まる出発点となっています。そこでまず、旧約聖書に記された神様のみわざを思い起こす期間として、降誕前節があるということになっています。今日の聖書日課には、テーマとして創造が挙げられており、聖書箇所としてヨブ記も挙げられています。ヨブは義人、神の前に正しいと認められた人で、家族、子孫に恵まれ、生活上の不自由は何一つありませんでした。しかし、サタンと神とのやり取りの過程で、ヨブを苛烈な試練が襲うことになります。ヨブは、すべての財産を取り上げられ、家族を失い、自身もひどい病を得て、のたうち回って苦しみます。そんな苦境に立つヨブを、三人の友が訪ねて参ります。彼らは、ヨブにどこか落ち度があるから、今このような目に遭っているのだ、だから、そのことをあなたは認めねばならないと諭しています。ですが、あくまでヨブにはそのような覚えがないのです。彼の問いは、なぜ正しい者が不当な苦難を背負わねばならないか、ということで、自らの正しさのゆえに、神様に問い掛けているのです。

 問い続けるヨブに、神様は答えますが、直接的な仕方によってではありません。むしろ、神様は創造のわざについて、ヨブに問い返されたのでした。38章の2節に、「これは何者か。/知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」とあります。「経綸」は、原文を見ますと「意図」であるとか、「計画」を意味する言葉が用いられています。ここで神様は、ご自身の御心を知らず、いたずらに言葉を募らせるヨブを戒めておられます。神様の御心については、創世記の始めの記述を思い返してみれば、神様がすべてのものを創造されたことを知ることができます。そのことがまず、ここで言う「知識」のはじめをなすものであることが分かります。ですが、それだけではありません。神様が造られたものを愛して、「極めて良かった」と言われたこと、預言者たちの口を通して、神様の民を救い出すと語られたこと、さらには、御子を遣わして、救いの御業を完成するということまでが、神様の意図、計画の中に含まれているのです。そのような、限りない神様の恵み、計画についての知識を指しているわけです。ヨブはその言葉に打ちひしがれて、自らの問いを取り下げました。結局、神様はヨブに報いて、長寿と、それまで以上の財産、子孫とを彼に与えています。そこまでが、ヨブの体験のすべて、わたしたちがそれを耳にして驚くべきことのすべてであって、彼の命もまた、神様の計り知れない計画の内にあったということです。

 神様は、創造のわざを示して、ヨブに何事かを悟らせようとしました。イエスもまた、神様の創造のわざを思い起こしながら、空の鳥や野の花を示して、悩み苦しみ、執着する人々に何事かを悟らせようとなさったわけです。わたしたちは、自らを取り巻く実存的な問いに雁字搦めにされて、神様の恵みが見えにくくなっているのです。本当の意味での知識を持つことなく、人の知恵によって、自らの苦しみから逃れようとして、もがき苦しみ、神様に問い掛け続けているのではないでしょうか。

 そのような実存的な問いに対して、直接的な回答が示されることは、なかなかありません。それでも、はじめからそうした問いに意味がない、ということでもありません。誰でもが、苛立つ心の内を吐露し、倦み疲れた体を、誰かに預けたくなることがあるからです。そのように思い悩み、問い詰めようとするからこそ、示される創造と救いのわざのリアリティが、一層深まるはずだからです。

 わたしたちは、神様の恵みが見えなくなって、執着心を持ち、思い悩むようになってしまうことがしばしばです。ですが、神様の御計画を思い起こし、悩むことなく、ただ神の国を求めていきたいと思うのです。なぜなら、必要なものはすべて、後から加えて与えられるからです。日々神様が養ってくださることを信じ、お互いに与え合って、神様がくださる神の国を、共に受け取ることのできるものでありたいと願います。

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