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2022年6月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

使徒言行録2章1~11節 「一人ひとりに留まる聖霊」 菅根信彦

★ キリスト教保育連盟から出版されている「幼児さんびかⅡ・20—1番」に「ひとりひとりの名をよんで」という幼児讃美歌があります。作詞が舟山紀、作曲は鷲見五郎。幼稚園に集まる子どもたちが、かけがえのない大切な存在であることを体いっぱいに感じることができるようなステキな讃美歌です。歌詞を紹介します。『 ひとりひとりの名をよんで/あいしてくださるイエスさま/どんなにちいさなわたしでも/おぼえてくださるイエスさま』。2番は『ひとりひとりをあいされて/うれしいときにはよろこびを/かなしいときにはなぐさめを/あたえてくださるイエスさま』と、このような歌詞です。

★ 子どもたちにとって、自分の名前をやさしく呼ばれることで、自分が受け入れられていることを知ることができます。そんな、イエス様の愛や優しさを子どもたちに知って欲しいとの思いがこの幼児讃美歌に込められています。特に、キリスト教保育の中心は一人ひとりの存在と個性を神様から与えられた賜物として受け入れ、愛をもって人間形成の基礎に関わっていくことですから、「全体」よりも「かけがえのないひとり」を大事にすることが求められます。

★ さて、本日は「ペンテコステ」の主日です。「ペンテコステ」は、「50日目」「第50番目」を意味する用語です。ユダヤ教の「五旬節の祭」を指す言葉でした。イスラエルの三大祭の一つでした。「刈入れの祭」(七週の祭)・「春の小麦の収穫祭」と呼ばれていました。イスラエルの民はこの古い農耕的祭儀を「シナイ山でモーセが十戒を与えられた日」として再解釈し記念の時として祝ってきました。そして、初代のキリスト教会はキリスト・イエスの復活から50日目に、神とイエスの命の息吹である「聖霊降臨の日」として記念するようになります。そして、この出来事を境に、弟子たちはキリストの証人になり宣教活動が始まっていきます。それ故に「教会の誕生日」と呼んでいます。

★ 使徒言行録2章1節以降の物語によれば、「ペンテコステの日」に起こった出来事が記されています。イエス昇天後、弟子たち「一同」がエルサレムに留まり「一つになって集まっていると」、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼れが座っていた家中に響いた」(1~2節)とその時の様子が描写されています。この描写は「モーセが十戒が付与された時」(19章16~19節参照)の様子と類似しています。この「風のような音」を伴って降る「聖霊」は「炎のような舌が分かれ一人一人の上に留まった」(3節)と続いています。出来事が「風」「炎」「舌」との言葉で表現されています。聖霊の風は「音」を伴って私たちの「耳」(心)を支配するように、「炎」は「舌」を伴って私たちの「口」を支配するような比喩で語られています。、それまで必死に祈り、神のみ言葉を求めて「聞く者」であった弟子たちは、「炎」(=神の臨在の比喩)の迫りによって、「舌」(語る者)となったことを伝えています。「舌」は「言葉の賜物」の象徴です。この出来事が「一人一人に留まった」と記されています。

★ しかし、私たちの生きる現代社会は何事にも数字で効率性が表され、数で価値が示されていく「マス化」された傾向を持ちます。殊に、コロナ禍の中で、ここ数年私たちは感染者数を見ながら一喜一憂しています。最近は減少傾向でホットする一面、20名、30名の方々が亡くなっている厳しい現実を突き詰められます。いつの間にか3万人以上の方々が亡くなっています。私たちは第三者の死として見てしまうことの方が多いですが、そこには一人ひとりのかけがえのない人生のドラマがあったはずです。

★ 今から2年前、2020年5月24日付けのニューヨーク・タイムズは、その日の朝刊の1面全面に、新型コロナウイルス感染による死者の氏名や年齢と居住地・人物紹介を掲載したことは記憶の新しいことです。当時アメリカでは感染拡大が止まらずに多くの方が亡くなりました。ニューヨーク・タイムスはその日「米国内の死者10万人近くに、計り知れない喪失」との見出しを付け、通常は写真などが載る1面すべてが活字だけで埋まる異例の紙面としました。死者紹介は1面を含めて計4頁にわたり1,000人分が掲載されていました。その紙面では「誰一人として単なる数字で表せる存在ではなかった」と語り、短いコメントでしたが人物紹介がなされていました。例えば、「素晴らしい耳を持った指揮者」「教会の聖歌隊で42年歌った」「ベーコンとハッシュドポテトが好きだった」などと一言で職業や生活を表現したそうです。実名を記すことで「失われた個々の人生を描写する」ことを目指したと書かれていました。

★ この企画は、私たちに常に一人ひとりが持つ尊厳さに立つべきだと視点を与えてくれました。確かに、一人の命への畏敬は聖書の解くメッセージです。イエスは「一人ひとりの名をよんで」いくように、律法社会の中で人間の価値が差別化される中で一人の命の尊厳を訴えた方であったはずです。教会は「マス化」される社会の中で、その一人にどれだけ寄り添えるか、一人を覚えて祈れるかが問われていると思いました。幸いに、同志社教会は週報に「誕生日」・「受洗日」記念者、「永眠者記念者」が報告され、覚えて祝福と祈りが捧げられています。鳴滝墓園には埋骨された方々の名前が大事に刻まれています。一人ひとりの生涯を心に刻んでいくという大切な慣習があります。また、一人ひとりが確かに神の恵みの内に確かに生きられたことの証しがなされています。

★ 聖霊は神の命の息吹であり、イエス・キリストを通して一人ひとりに与えられるものです。「あなたはあなたである」ことを保障する神のはからいです。さらに、宗教改革者マルチン・ルターはヴォルムス帝国議会において自説の撤回を迫られた時、ルターはこう言い放ったと言われています。「教会も教皇も間違いを犯す。私は聖書の言葉によって間違いを指摘されない限り、自説を撤回するつもりはない。」そして最後に、「我ここに立つ。他になしあたわず。神よ、われを助けたまえ」と。多くの反対者の中で、命をかけてこう言わしめたのも、聖霊の働きによるものではないかと思います。このペンテコステの礼拝において、聖霊によって与えられる神のみ旨、イエスの慈しみ、それぞれが深く受けとめ、一人一人の責任をもって、その恵みに主体的に応えていく信仰のありようを求めて生きたいと思います。

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