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2022年4月24日(日)の説教要旨 [説教要旨]

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7~18節 「日々新たにされる」 大垣友行

◆ コリントの町は、ギリシャの首都アテネから80kmほど西、ペロポネソス半島の付け根のあたりに、今もあります。パウロの旅路は使徒言行録に記されていますが、コリントでのことは18章に書かれています。11章に、1年6か月の間とどまったとあり、その間に、実に多くの人々が回心し、洗礼を受けたということです。その後彼はコリントの町を離れますが、教会内部で党派の争いが起こりました。彼はコリントの教会を、福音に基づいて正しく導くために、第一の手紙を著しました。彼はまた、その後でコリントを訪れたようです。使徒言行録20:2に「ギリシアに」とありますが、これはコリントのことを指しているようです。

◆ 第二の手紙を読みますと、この2度の訪問の間にも、パウロはコリントを訪れていた可能性もあるということです。2:1で、彼がコリントの人々に「悲しみ」を与えたことが書かれています。これと関連しますが、2:4に「涙ながらに手紙を書いた」とあります。パウロのコリント訪問は2度に限られないし、送った手紙も2通だけではなかった、そのようにも考えることができるようです。この第二の手紙自身も、複数の手紙から構成されているのではないか。そのような仮説があります。どのように分けるかは論者によって異なりますが、たとえば古代の書簡理論や、修辞学を援用する説明があります。古代的な手紙としての統一性を説得的に論じたものですが、それ以上に、パウロという人がそうした古代的な教養を身に着けた知識人であったのだ、ということを、具体的に思わされました。彼は知識人としても、コリントの教会を導こうとしていたのです。

◆ 第一の手紙を書いた後、パウロはコリントを再び訪れる予定でした。ですが、コリントの教会では、パウロの使徒としての正当性が疑われつつあったようです。そこにはいわゆる「偽教師」も出没していたそうですが、彼らは有力な教会からの推薦状を携えて、パウロの職務の正当性に疑義を呈していたようです。それゆえにパウロは、自らの使徒職の弁明のために、第二の手紙を著したということになります。

◆ 1:12で、彼は自らの活動が「神の恵みの下」にあったものだと述べています。また3章では、具体的に「推薦状」について語っています。コリントの教会の人々が、推薦状だというのです。それはひとえに、彼らがパウロとともに、キリストに結ばれた者たちであったからに他なりません。こうして彼は、自らの使徒としての立場について弁明しているのです。

◆ 本日の聖書箇所は、このような弁明とつながっています。使徒としての彼の働きは、神様の恵みのもとにあるわけですが、そのことを逆説に満ちた仕方で語っています。パウロの宣教の歩みは、決して平坦な道のりを行くものではなかったでしょう。実際に、迫害された経験について彼は語っていますし、まさに問題となっているコリントの教会でも、疑いの目を向けられるような状況に置かれていたわけです。ある意味では常に危険と隣り合わせの旅路だったわけですが、彼はついに、そのことを問題にしなかったわけです。彼は十字架につけられたキリストの死の苦しみを思い、自分自身の旅路に置かれた困難を乗り越えていきました。いつも弱さを感じつつ歩んでいたことと思います。ですが、「弱いときにこそ強い」と語ってもいますように、彼はここでも逆説をつかって、そうした困難を乗り越えようとするのです。死にさらされているのは、命が現れるためです。もろい土の器の中に、砕くことのできない、神様の恵みが隠されているというのです。

◆ 日々の歩みの中で、外なる人は衰えていきます。しかし、福音を受け入れて、これまでの生き方から変えられることで、艱難を忍び、神様のみもとに招かれるという希望をもつことができる。この希望を、イースターの出来事を通して、改めて確認し、日々の歩みの支えとすることができますようにと願います。

◆ こうしてわたしたちは、パウロの手紙を通して、彼自身が大切に考えていたことについて、少し知ることができたようです。わたしたちは、神様に導かれながらも、苦しい道のりを通っていかなければなりません。そのことは、コロナのこと、戦争のこと、様々な事柄を思えば、残念ではありますが、否定するわけに参りません。わたしたち自身も、新共同訳の言葉では日々「衰えて」、自分たちがいかにもろい「土の器」であるかを実感させられる毎日ではないか、とも思われます。神様に愛されながらも、重荷を背負わされ、困難に向き合うことになるわたしたちの姿を見ていて、ちょっとしたあるものに似ているのではないか、と思いました。

◆ 皆様は、小さい頃に、ぬいぐるみを大切にしておられた経験がおありでしょうか。『愛されすぎたぬいぐるみたち』という、一種の写真集がございます。これは題名の通り、愛されすぎてボロボロになったぬいぐるみたちの写真を集めたものです。お世辞にもきれいとは言えないようなものが多く、一見しただけではただの汚いぬいぐるみ、と思ってしまいそうです。ですが、この本には、ぬいぐるみの名前や持ち主のこと、そして年齢までも書かれているんです。こうしたエピソードがあるおかげで、わたしたちは、「つまらない、汚いぬいぐるみ」というだけではなくて、「ああ、こんなにボロボロになるほど、大切にされてきたんだ」ということが分かるわけです。ぬいぐるみは愛されるあまりボロボロになってしまいますが、持ち主とのエピソードが日々書き加えられていっているのです。

◆ わたしたち自身もまた、「愛されすぎた神の民」……なのかもしれません。わたしたちは、体だけではなく、心もまた、日々弱められ、苦しみを背負って行きます。ですが、それはパウロが語っているように、究極的には命を得るためのことなのです。パウロが書き送ったこの手紙は、神様とわたしたちのエピソードとも言うことができるかもしれません。神様の愛の経緯を知り、わたしたちばかりでなく、コリントの人々もまた、各々の苦難に向き合い、また隣人の労苦を知り、神様の愛の深さに思いをいたし、生き方を新しく変えられたはずなのです。それならばわたしたちもまた、復活のイエスの姿を思い起こし、神様に導かれるままに、この矛盾に満ちた、日々新たにされる命の歩みを進めて行きたいと願います。

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