SSブログ

2022年2月6日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福音書 15章21〜28節 「わたしとなるための出会い」 山下 智子

◆だいぶ以前、私がまだ同志社大学神学部の学生であった頃の事です。節分に普段は見かけないおいしそうな太巻きを見つけ、喜んで買って帰りました。そのままでは食べにくいので、当たり前のこととして切り分け夕飯にいただきました。後日、実はそれは恵方巻きというものであり、本来は切らずに一本丸ごと食べなくてはならなかったと知り、何と面白い風習だととても驚きました。今でこそ全国区になった恵方巻きですが、私の生まれ育った福島では当時全く知られてなかったのです。

◆節分と云えば豆まきです。冬から春へと向かう季節の変わり目には鬼、邪気があらわれやすいと考えられ、普通は「鬼は外、福は内」と豆まきをします。ところが、日本の中には「鬼は外」と言わない地域もあることを知りとても興味深く、考えさせられました。たとえば奈良吉野の金峯山寺では「福は内、鬼も内」と唱え、全国から追われてきた鬼を迎え入れ、鬼たちを救いに導きます。東京浅草の浅草寺では 、観音様のお力によるなら鬼などいない考え「千秋万歳、福は内」と唱えるそうです。

◆鬼といえば、昔話の桃太郎も思い起こされます。一般的によく知られた桃太郎は鬼ヶ島に鬼退治に行き、宝物を戦利品として持ち帰ります。こうした桃太郎像が広まったのは、明治以降、帝国主義の日本でつくられた童謡や絵本によってだといわれます。鬼ヶ島は日本が正義の名のもとに敵国、あるいは植民地とした地域と考えてみると、鬼としてやっつけられ宝を奪われたのは異なる文化や習慣の人々です。勇敢なヒーロー桃太郎も、途端になんとも残酷で身勝手な乱暴者のように感じられてきます。

◆私達が当たり前だ、正しいことだと思い込んでいる事物の中には、実は見方を変えれば当たり前ではない、正しいとも言えないことが沢山あります。私達が知らず知らずのうちに持っているステレオタイプな固定観念に気がつかされ、それを乗り越えた時に、私達は神に与えられた自身の命の意味についてより深く理解し、より自由で豊かな世界で生きることができるようになるのではないでしょうか。このことについてイエス様とカナンの女の出会いから考えてみたいと願います。

◆癒しの奇跡は苦しむ人々に寄り添い共に歩まれたイエス様の救い主としての姿をよく表すものです。しかしカナンの女との出会いの物語は、私達に戸惑いと疑問をもたらします。なぜならば、この時のイエス様は、はじめ女性に対してとても冷たい対応だからです。もしその点についてよく考えることなく、この話を型通りの癒しの奇跡と受け止めてしまっているのなら、私達はいつのまにか聖書や主イエスの恵みを、自分の手のひらに収まるちっぽけなものにしてしまっているかもしれません。

◆ティルスとシドンは、パレスチナの北側、ローマ帝国が支配するフェニキア地方の都市です。地中海沿岸で貿易港として繁栄しており、豊穣・多産の女神アシュトレトが信仰されていました。当時のユダヤ人にとって、ティルスとシドンといえば不信心な町の代名詞でした。カナン人はパレスチナ地方の先住民であり、異邦人です。ユダヤ人からしてみれば、本当の神を知らない、汚れた救われない人々であり、交流はしませんでした。さらに医学や科学が発達してなかった時代、治療困難な病気になるのは悪霊によると考えられていました。そして、悪霊に取り付かれるのは、本人、あるいはその親が、何か神に見放されるような悪いことをしたから、汚れた人であるからと理解されました。

◆カナンの女は苦しむ娘を何とか救いたいと、イエス様のうわさを聞きつけ駆けつけ、しつこく叫びながらイエス一行についていきました。ユダヤ人社会は父権性で男女の区別がとてもはっきりしていました。そのためユダヤ人男性にとって、家の中にいるべきとされていた女性が公の場で叫びながらついてくることは、とても恥ずかしく迷惑な行為です。現在の日本ならば迷惑防止条例違反、悪質な客引きと痴漢が組み合わさったような不愉快な行為だと想像してみればよいかもしれません。しかも女性は不信心な町に住む異邦人の上に、悪霊つきなわけですから、イエス様もはじめ積極的にかかわろうとはされませんし、弟子たちは主に追い払ってくれと頼んでいるのです。

◆イエス様は救い主、神の子ですが、同時に人間の母マリアから生まれた私達と何ら変わりない人間でもあります。たとえば私達が「鬼は外」であり、桃太郎は素晴らしいヒーローだといつのまにか思い込んでいるように、イエス様であってもユダヤ社会で育った男性として、文化的社会的影響を全く受けなかったわけではない事に気が付かされます。意外かもしれませんがイエス様はこの時までは、まずユダヤ人社会の中で見捨てられている人々を救うことがご自分の使命ととらえていたことがわかります。

◆しかし、イエス様は女性との出会いややり取りを通して、すべての人の救い主としての自身の使命を見出していきました。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」「ユダヤ人のための救いを取って、異邦人にやってはいけない」とのイエスの優しいとはいいがたい言葉に、女性は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」「異邦人も救いにあずかれるのです」と答えています。私たちは子犬と聞くとかわいがっているチワワや柴犬などを思い浮かべがちです。しかし当時のユダヤ人にとって犬は危険で汚れた生き物であり、時に人間を襲い狂犬病などももたらす野犬の事でした。しかし彼女は異邦人を、外をうろつく恐ろしい野犬としてではなく、神の家の中で大切な家族の一員として愛されている子犬としてとらえます。そして子犬がパンをもらえると信じ期待して食卓の下で待っている時に決してその期待が裏切られることはないと、深い信仰によってもたらされる豊かな神の家と救いの食卓のイメージを生き生きと描いて見せたのです。

◆この言葉に対して、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と答え、その瞬間に娘の病気はいやされます。主は、女性の信仰や言葉に、ご自身がユダヤ人社会で男性として育ち暮らす間に、いつの間にか持っていた外国人や女性に対する誤った捉え方、固定観念のようなもとにハッと気が付かされたのではなかったでしょうか。イエス様はこの直前に有名な5000人の給食の奇跡を起こされていますが、その時にはたった2匹の魚と5つのパンで5000人が満腹しただけでなく、そのパン屑を集めると12の籠が一杯になりました。これは主イエスによってもたらされる神の救い恵みは、その場にいないさらに大勢の人を癒し満たすものであることを表していました。イエス様は、カナンの女と出会い、籠のパン屑はユダヤ人だけのものでないことに気づかされたのです。イエス様はご自身の救い主としてのあり方を直ちに改め、彼女の娘をいやしました。

◆イエス様の救い主としてのすばらしさは、神の子でありながら私達と同じ人間として歩まれ、私達の弱さや愚かさをよく知っていて下さり、その上で私達の進むべき道を示して下さることです。イエス様はカナンの女性との出会いと対話を通し、自分自身のありようについて敏感に気づかれ柔軟に変わられました。この物語はカナンの女との出会いと対話によりイエス様が万人の救い主となっていった、いわばキリストがキリストになった驚くべき物語です。私達は、こうした主の姿勢やあり方に学び、私達自身の日々の出会いや対話へと押し出されたいと願います。時に全く考えの異なる方や、受け入れがたく思う方と出会う事もあるかと思いますが、実はそれこそが自分自身の中の偏りや過ちに気付き、私達たちがより本来の私達自身になるための大きなきっかけになるものです。主がそうであったように、神が与えた命の意味をより深く理解し、ますます私達らしく命を輝かせてより自由で豊かな神の愛の世界を歩みたいと願います。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。