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2021年11月14日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ローマの信徒への手紙5章1~11節 「過去の記憶」 中野 泰治

◆ 今から約2000年前にキリストの到来があり、贖罪の無償の申し出がなされました。それが終末の先取りとして私たちの未来の希望を照らし出す。ドイツの神学者パネンベルグはそう言います。要するに過去のキリストの愛の啓示が終末、つまり未来における神との和解の予見だというのです。そこに希望があるだと。過去の経験が未来を支えるのだと。この難しい話をもう少し次元を下げてお話しします。特にコロナ渦になって以降、礼拝に参加することが少なくなり、隠れキャラ的存在におりますので、まずは改めて自己紹介から始めます。その後、本日のテーマとして、「経験」、聖書の言葉では「練達」の大切さについて語りたいと思います。

◆ 私の実家は兼業農業家で、稲作と但馬牛の生産をメインにしておりました。父は仕事熱心で、週日は会社員として朝から晩まで働き、土日は農作業していました。その点では非常に尊敬していましたが、とにかく口より先に手が出るタイプで、何かあればすぐに殴られる日々でした。ですので、父親が現れるといつも隠れていました。そうした仕事熱心な父親だったため、今の言葉で言えば、父親不在の家庭でした。それに不満を抱いた母はいつも私に父みたいな人間になるんじゃないよと悪口を言っていました。よくあるパターンですが、父親不在で、かつ愛よりも憎しみを見せつける母に育てられて、生きている心地が持てないまま育ちました。

◆ 物心ついたときから、ずっと人生に悩んでいました。なぜ生きているのだろうか。良い学校に行って、良い会社に入って、良い生活を送り、子供を産み、それで子供が良い学校に入って、良い会社に入って、良い家庭を作る、でまたその子供が…。というように、この繰り返し、この連鎖に一体何の意味があるのか、まるで業ではないか、人生は呪いではないのかと。狂いそうになりながら生きる意味も分からず、一方で誰かからの承認を得ようとして一生懸命勉強するという子供時代でした。高校生なるとすべてが回らなくなりました。人生を選択する段階になって、生きる意味が分からないために前に進めなくなったのです。そのため、仏教やヒンズー教、キリスト教といったあらゆる宗教の本、あらゆる哲学の本を読みあさりました。

◆ もともと数学科に進むつもりでしたが、ある日トルストイの『人生論』を読んだ時、後ろから思いっきりガツーンと殴られたような感覚になりました。自分のことしか考えていなかったそれまでの生き方が変えられたのです。そこでキリスト教について学ぼうと、同志社の神学部に入学しました。その後、いろいろありまして、学業を三ヶ月ほどで放棄して本当の意味で失踪して、名古屋でパチンコ屋の正社員として住み込みで一年半ほど働き、カラオケ屋の副店長として一年ほど働きました。ここから私の人生は大きく変わっていきます。働くなかで人に親切にされたり、愛をもって怒られたりして、少しずつ愛を分けてもらうことになったのです。それまで単なる勉強マシーン、ネガティブ思考のAI機械のような人間でしたが、こうした人々との交わりが私を少しずつ人間にしてくれました。それでも私の精神が安定したのは、30才頃になってからです。それまでは酔っ払いのように人生をふらふらと歩むだけでした。

◆ 時間を戻しますが、24才で神学部に復学しました。その頃の生活は、授業に真面目に出て、後は自分で学費を稼ぐためにバイト三昧の日々でした。バイト先での人たちからも少しずつ愛を頂くことで、また精神が安定していきました。そして最後の強烈なアンパンチ!が、今の妻との出会いでした。某本社のEメール対応センターで出会ったのが今の妻です。一目惚れでした。6才年下でしたが、請求書の計算処理をする部署のリーダー的な役割をしておりまして、私は彼女の下でバイトをしておりました。一年くらい遠目でかわいいな、かわいいなと思いながら仕事をしていましたが、ある日意を決して、デートに誘いました。答えは「嫌です」でした。泣きながら仕事をしました。そういうことを繰り返して、だんだんと仲良くなりました。

◆ あるとき、計算を繰り返して、どうしても正しい数字が出ない事があり、私は落ち込みながら、リーダーに分かりません、代わりにやってくださいと丸投げしたところ、彼女はたった五分で解きました。輝いて見えました。知性のきらめきを感じました。私は賢い人が好きなので、ああこの人と付き合いたいと思い、口説きまくりました。そして付き合うことになりました。その頃は、ちょうど英国の大学に所属していた時なのですが、単位を取り終えて、日本に帰ってきて博論を書いていました。英語で300頁以上の博論を書くということで、何度も絶望的な気分になり、自暴自棄になる時もありました。もう無理。あかんわ。もうやめた。就職活動する。そういう時でも彼女はいつも励ましてくれて、金も地位も何もない、何も持っていない私、生きている価値もない私を見捨てることなく、常に支えてくれました。ここで初めて、実の親も与えてくれなかった経験、何であろうとも見放されない経験をしました。そして学位を取り、同志社に就職した際には、感謝の気持ちを込めて結婚を申し込みました。結婚後は、いろんなことでけんかしてきました。しかしそのたびに全面的な愛を受けたという経験を思い出して反省します。あんなに受け止めてくれて、付いてきてくれた妻の姿を思い出して、ごめんと頭を下げて仲直りするのです。

◆ 「艱難辛苦、忍耐、練達、希望」という言葉の「練達」は、欽定訳聖書では、experience(経験)と訳されます。過去の経験、つまり、受け入れられたという経験が未来を照らし出してくれるのです。神は人を通して働かれます。キリストが受肉された意味もここにあります。神は目には見えませんが、神の働きは人を通して見ることができます。私の妻は浄土真宗のお寺の娘さんですが、ある意味で、神は彼女を用いて愛を示されたわけです。このように、人を通して働かれる神の愛の経験が、キリストの十字架上の愛と重なり、人はキリスト教に惹かれ、時にはキリスト者となるのです。

◆ 話を戻しますが、過去の経験が希望を生みます。希望は単なる願望ではありません。希望には、過去の経験という次元が常に存在します。約2000年前のキリストの到来と贖罪の経験が、未来の神との和解を指し示します。ですので、私たちキリスト者の役割は、キリストの到来によって先取りという形で示された愛と愛の国を、前味として実現することにあります。具体的には、何者であろうとも愛することを実践し、教会という場では相互に愛をもって支え合うことです。こうした愛の共同体の実現が、神の国の前味になります。神の愛を私たちの行為を通して示し、神の国の予兆を示すこと、そしてそれを経験として人々に与えること。これがキリスト者に求められていることです。艱難辛苦、忍耐、練達、希望。経験は希望を生みます。希望は神へと導きます。そういった経験を積ませるのかが大切なのです。それがキリスト者に求められていることであり、キリスト者の役割です。私たちはそのような人々でありたいと願います。

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