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2021年5月23日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2021.5.23  使徒言行録 2:1-11 「新しい世界がはじまる」(髙田)

◆ キリストの復活があって教会が生まれた。福音書の記述からは弟子達がガリラヤで復活のキリストに出会ったことが窺われる。30年か31年のことであった。教会がどこではじまったかはわからない。復活の出来事についての最古の証言は第一コリント書に記されている。キリストは聖書に書いてあるとおり三日目に復活し、ケファに現れ、その後十二人に現れ、次いで五百人以上もの兄弟達に同時に現れたとパウロは書いている。これは教会の起源ともなるだろう。手紙が書かれたのは紀元50年代の中頃。すでに伝承が形成されていることがわかる。

◆ 教会の迫害者であったパウロがダマスコに迫害に行き、その途上で復活のキリストに出会ったのは、34年頃のことだと考えられている。つまり、その時にダマスコにキリスト者がいた。キリストの復活後、ごく短期間に教会がシリアのダマスカスにまで広まっているのである。ガラテヤ書の報告に従えば、回心から3年後、パウロはエルサレムに上りケファとヤコブに会った。パウロが動き出すのは、そこから14年が経ってのことである。この間に教会はかなりの地域に広まり、ローマやエジプトのアレキサンドリアにも教会ができていた形跡がある。その時すでにパウロは異邦人伝道に取り組んでいた。彼はバルナバと共にアンティオキアからエルサレムに上り、異邦人伝道の使命が自らに与えられていることを、その時の教会の柱と目される人々に認めてもらった。それでも異邦人の救いを巡っての見解の違いがあり、パウロはバルナバとも袂を分かって、いわゆる第二次宣教旅行に歩み出して行く。

◆ このあたりの事情を詳しく報告しているのが使徒言行録である。この書の著者ルカはフィリピの町の出身であったと思われる。パウロとルカの出会いは51年頃だろうか。トロアスの町でパウロに出会ったルカは、その教えにひかれて、パウロをフィリピに導いたのだろう。そうしてパウロはフィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリントというギリシャの町を巡り、幾つかの教会を建てた。

◆ 50年代中頃のギリシャとトルコの教会の様子はパウロの手紙から窺うことができる。使徒言行録とコリント書には、アレクサンドリア出身のアポロという伝道者がいたことが報告されている。すでに広い地域に教会が生まれて、さまざまな教えが説かれていて、それがしばしばパウロの教えと衝突したことがわかる。教会はその初めからさまざまな意見の対立を持ちながら展開して行った。

◆ パウロもケファやヤコブと衝突し、バルナバとも仲違いした様が描かれている。その仲違いのきっかけがマルコという若者であったことを使徒言行録は報告している。生前のイエスを知らず、また生前のイエスの教えに言及もせず、キリストの十字架と復活から神学を形成したパウロに反発するものもいた。そういう中でパウロは56年にエルサレムで拘禁され60年頃にローマに移送された。使徒言行録の著者ルカもこれに同道している。ローマ拘留されているパウロの元をルカが、そしてマルコもが出入りしていた様子もまたフィレモン書に記録されている。

◆ パウロの殉教は60年代後半と考えられるが、すでにその頃、マルコ福音書が世に出ていた。伝統的には、パウロとバルナバの仲違いの原因となったマルコが著者と考えられている。このマルコの母はイエスの弟子であった。イエスが十字架につけられたときにはまだ小さなこどもだったはずのマルコであるが、母や他の弟子達からイエスのことを聞かされていただろう。彼はアラム語を母語としていたが、拙いギリシャ語で福音書を記した。

◆ ルカはマルコ福音書の情報を頼りに、しかしその拙いギリシャ語を流麗な表現に改め、そこにイエスの言葉、イエス自身の教えを加えて物語を描き、十字架に行きつく。そしてマルコ福音書が描かなかった復活について、彼はエマオへの道の物語、エルサレムからエマオに向けて歩く二人の人に復活のキリストが同道する物語を記した。なぜ彼は復活の意義を描くためにこの物語を記したのか。それは彼自身が旅をした人物だったからではないか。旅の中で何度も心が燃える経験をし、共にいる復活のキリストを経験したからではないか。

◆ 十字架と復活が過越祭の最中であったことは事実である。では教会はどのようにして生まれたのか。ルカは、イエスの弟子達がイエスの復活後、50日目にペンテコステの出来事を経験して、教会が誕生したと記した。そのように設定した。過越祭から50日、五旬祭は出エジプトから50日目、モーセに率いられたイスラエルの人々がシナイ山に到達して、神から律法を与えられたことを記念する祭であった。場所はエルサレムである。パウロは危険を顧みずエルサレムに献金を届けようとしていた。意見の違いがありながら、エルサレムの意義をパウロは評価していた。そんなパウロの思いをルカが受け継いでいたなら、教会の出発はエルサレム以外にはない。

◆ そうしてルカはイエスの昇天を復活から40日目に設定した。ノアの洪水が40日、出エジプトが40年、モーセが契約の板を受けとるまで山に留まったのが40日。ルカはこうした旧約聖書の象徴をよく理解していた。それは新しい事がはじまるための忍耐の期間である。しかし彼は直ちに教会の誕生をそこに設定しなかった。すでに教会は週の初めの日に礼拝を行っていた。復活の日、イースターから50日目もまた週の初めの日である。ルカは教会の誕生をこの週の初めの日に設定したかったに違いない。それに加えて、五旬祭の元々の意義を教会の誕生に重ねようとしたのだろう。

◆ ルカはユダヤ人ではなかった。それでも彼はエルサレムへの旅を通して、そうした事柄の意義を理解しようとしていた。旧約聖書の解き明かしにおいて心が燃えることは、エマオへの道で描かれていた通りである。言葉が響き合うときに心は燃える。その経験が人を束ねて教会を生み出す。ルカはその出来事を風と炎と言葉の出来事として描き出した。風と言葉は創世記の天地創造の記事に重なるが、これに炎を加えているのは、エマオへの道で心が燃えていたことを説いたルカらしいのではないか。

◆ ギリシャ語ネイティブである彼は、ペトロやマルコが苦しんだようにギリシャ語で苦労することはなかったかもしれない。しかし逆の苦労もあっただろう。アラム語しか話せない人々とも彼は関わっていった。旅をしたから、そういう言葉の違いの苦しみを知っていた。旧約聖書はバベルの塔の出来事によってこれを説明している。

◆ そうであれば、これを克服する出来事としてペンテコステが描かれる。言葉が違えども、思いは通じ合う。一人びとりが聖霊によって神につながることで、言葉が違うそのままに、横の関係としてはわかり合えないそのままに、思いが通じ合う。さまざまな人の教えが対立しあうその根底で、人は聖霊の助けによって他者とわかりあうことができる。そこで心が燃える。そして神はそのようにして福音の宣教を進められる。

◆ もし、コロサイ書が伝える通りにルカが医者であったなら、ウィルスによって人が分断されている今の状況にどのように向き合っただろうか。この医者のルカだけがよきサマリヤ人のたとえを書くことができた。誰かの隣人となる道を彼は知っていた。しかし彼は聖霊によって人が繋がることをも説いている。医者であれば自らの力及ばぬところを彼は自覚できただろう。人に歩み寄り隣人となることも難しいこの状況でこそ、わたしたちは彼の経験に、そのメッセージに思いを重ねたい。

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