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2021年2月21日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.2.21 マタイによる福音書4:1-11 「試みの報酬」 望月修治

◆ 「人はパンだけで生きるものではない」この表現は広く知られています。聖書に記されている表現だということも多くの人が知っています。しかしそれは、この言葉が知られていることと、聖書でこの言葉を通して語られている意味、真理が広く理解され、受け入れられていることがイコールだということを意味しているわけではありません。次のような文脈でこの言葉が語られることが多いからです。「この言葉は余裕のあるときに言えるのであって、切羽詰まったときには、そんなことは言っていられない、やはりパンがなければダメだ、だから、このイエスの言葉はある程度割り引いて聞かなければならない」とどこかで考えてしまってはいないでしょうか。

◆ そこでまず、どういう場面でイエスがこの言葉を語ったのかを確認することから始めます。30歳を過ぎる頃、イエスはそれまで両親や家族と一緒に暮らしてきたナザレを出て、直線距離で20キロほど離れているヨルダン川までやってきました。そこで、バプテスマのヨハネから洗礼を受けます。そのあと荒れ野に導かれ、40日の断食の末、悪魔の試みに遭います。福音書記者のマタイは荒れ野でイエスに起こった出来事をなまなましく表現しています。批評家の若松英輔さんが、「小学生にならない頃、ミサに出ていて、はじめてこの物語に触れたときの衝撃は言葉にならないまま、悪魔への恐怖と共に深く心に残った」と書いておられます。それほどにリアルだということです。

◆ 荒れ野の誘惑物語は次の言葉で始まっています。「イエスは悪魔から誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した」・・・これは大変興味深い書き出しです。「イエスは悪魔から誘惑を受けるために」と記されているからです。荒れ野に行ったらたまたま運悪く誘惑に出会ったというのではなく、「誘惑を受けるために」荒れ野に行ったというのです。荒れ野に行ったら会いたくはなかったけれど悪魔に見つかってしまって誘惑を受けるはめになったというのではありません。イエスは意図的に誘惑を受けに行ったというのです。マタイはたしかにそう書いています。さらには「霊に導かれて」とも書いてあります。イエスが誘惑を受けることは神も同意していたことであったということです。

◆ 荒れ野において誘惑を受ける、それはかなり危うい状況に身を置くことになります。なぜこのような踏み込み方をするのでしょうか。救い主として伝道活動を開始するのであれば、荒れ野で誘惑を受けるというような暗いエピソードから入るのではなく、すぐ後の12節から書かれているような、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められたという物語からはじめてもよかったのではないかとも思います。しかしマタイは荒れ野でイエスが受け身ではなく、つまり荒れ野に行ったら運悪く悪魔から誘惑を受けてしまったというのではなく、自ら意図的に誘惑を受けたと書いています。ということは、この荒れ野での誘惑に対してイエスがどのように応じたのか、そのことが、イエスの姿勢、イエスが救い主であることの意味、さらには、神は人間にどのような生き方を求めているのかを明らかにしていく、そういう内容を今日の物語はもっているのだということです。

◆ 荒れ野で悪魔はイエスにまずこうささやきました。「もし神の子であるなら、石がパンになるように命じたらどうだ」。それに対してイエスが語ったのが「人はパンだけで生きるものではない」です。この言葉はよく知られています。しかしさらにイエスが続けて語った「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉はそれほどには知られていません。しかしこの二つの言葉はあくまでセットで読む必要があります。「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」 この4節の言葉は次のように解釈されてきました。人はパン、すなわち見えるものだけで生きるのではなく、見えない力によって生かされている。パンにこだわる生き方を戒め、神の言葉を拠り所として生きることこそが大切なのです、とそのように読まれてきました。

◆ この解釈が違っているというわけではありません。しかし、福音書に記されている食べ物に関わるイエスの行動や言葉を思い起こしてみたとき、もう少し違った意味合いを込めて福音書記者のマタイはこの場面を物語ったのではないかと思えるのです。福音書の中で出会うイエスは、食料としてのパンを軽んじるような姿勢をとることはありません。今日の箇所で、40日間の断食をして飢えを体験したイエスは、目に見えないもので肉体の空腹は満たされるなどと語ってはいません。五千人、あるいは四千人の人たちが空腹になっとき、イエスが行ったのはその人たちに食べ物を配って空腹を満たすことでした。毎週の礼拝の中で祈られる「主の祈り」にも「わたしたちに必要な糧を今日お与えください」という祈りの言葉があります。1日を生きるために必要な食べ物が与えられるようにと願いないさいとイエスは弟子たちに教えたのです。それから十字架の出来事の直前、弟子たちとの最後の集いも晩餐でした。イエスが信仰の意義を弟子たちや人々に説くのは食べ物を与えた後なのです。

◆ ヨハネ福音書6章26−27節に次のように記されています。これはイエスが5千人の人々の空腹を大麦のパン5つと魚2匹を配って満腹にしたという出来事の後に語られた言葉です。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 人々がイエスの後を追って来たのを見て語られた言葉です。人々はイエスの教えに思いを揺さぶられたからというよりも、パンが与えられたから、後を追ってきたのだとイエスは言っています。人はお腹がすけば神の言葉ではなく食べ物を追い求めます。イエスはその現実を非難するのではなく、受けとめます。飢えはまず、満たされなければならない、という立場をイエスは離れません。その上で、お腹が満たされ、肉体が満たされるのを感じたならば、心の飢え、魂の飢えからも目を背けないでほしいというのです。

◆ 人間の体が食事をとることによって健康が維持され支えられるように、私たちの心は言葉によって育まれます。肉体の飢えが食べ物によって満たされるように、心の渇きは言葉によって癒され、満たされます。人間の心は「神の口から出る一つ一つの言葉」によって生かされているのです。具体的にいうならば、神は私たちに異なった世界や他者と出会い、そこに生きる人たちの言葉を聞くこと、生き方を知ることを促すのです。それが新しい気づきをもたらして、心の飢えを満たす食べ物となるからです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とはそういう意味なのだと思います。

◆ 聖書が語る神は人間から見れば、実に大きな違いをもって存在する他者です。この違いは人に大きな戸惑いと違和感を感じさせ、それゆえの拒絶感を抱かせることもあります。けれども聖書は、この大きな違いを薄めるのではなく、違いは違いとして明確にし、それと向き合うことを求めます。違っているものに出会う時には、戸惑いや不安や迷いを味わいます。しかしそういう体験を経て開く窓が心にはあります。自分と違った生き方をしている人、自分の生きている日常性とは違った出来事に出会った時に、それまで気づけなかったことを発見し、自分の歩みが深く掘り起こされる体験が訪れます。それは違いに向き合ってはじめて与えられるものなのだと思います。その体験をもう少し押し広げて行ったときに、実はそれが神という全く違った他者に向き合ったときに与えられれるものの深さを知ることにつながっていくのです。そしてそれが「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことの中身なのだと思うのです。

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