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2020年11月22日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.11.22 ミカ書2:12-13 「裁きを越えて」 望月修治     

◆ ミカは紀元前8世紀後半に活動した預言者です。同時代には北王国イスラエルで預言者のアモスやホセアが、南王国ユダではエルサレムでイザヤが活動していた時代です。ミカの出身地はモレシェトという小さな田舎町です。エルサレムの南西約35キロほどの距離にあった町です。当時イスラエルは南王国と北王国に分裂していましたが、領土は紀元前10世紀のダビデ、ソロモンの繁栄の時代に匹敵するほど広がり、経済的な繁栄期を迎えていました。しかしその背後では、社会の腐敗が進み、不正義がはびこり、貧富の格差が増大するという矛盾が深刻化していたのです。ミカ書2章の2〜5節には、都市の富裕層が地方の農民の土地を収奪するさまが描かれています。2節「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。」ミカは北王国の首都と南王国の首都、そのいずれでも、このような状況を生み出している国の指導者を批判しました。

◆ 民の指導者たちへの厳しい批判を重ねる一方で、ミカは人々に神が将来イスラエルの民を救うだろうという希望を語ります。それが今日の聖書日課の箇所です。「わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。」 羊飼いと羊、それは神と人間との関係を表す聖書の伝統的なたとえです。ミカもその伝統に立って希望を語ります。羊飼いの働きには先頭に立って群れを導く場合と、それとは反対に群れの後ろから全体を見渡しながら進んでいく場合とがあるのだそうです。「リードする羊飼い」と「フォローする羊飼い」、二つの働き方があるというのです。羊飼いにとってどちらも必要な役割であり、群れを養うためにはふたつの面が必要なのです。

◆ ミカは、「先頭に立って羊たちを導く羊飼い」のイメージで、神の働きを語っています。一方、福音書では、いなくなった一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼いの譬え話が語られています。この例え話は「群れの後ろから羊たちをフォローする羊飼い」の働きを語ります。神と人間との関係を羊飼いと羊に譬えている聖書の箇所でもよく知られているのは詩編23編です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉で始まっているあの詩編です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。・・・」 「死の陰の谷を行くときも」とは死を連想させるほどの厳しい道のりを体験するということです。けれども多くの人はそのようには考えないと思います。人が神を信じるのは、そうすることで幸福や安寧が約束されると思うからです。しかしこの詩編は神を信じていても苦難を経験することがあると教えるのです。人は「死の陰の谷を行く」時があるのだという。けれども同時にこの詩編は、その避け難い厳しい道でこそ神は共におられて、そこから導き出そうとしておられるのだと語っています。信仰とは苦難がすべて消え去ることを目的とはしないのです。神を信じれば人は苦しみや悲しみや辛さが消える、辛い目に会わなくてすむようになるとは、聖書は言いません。むしろその苦難を、その悲しみを、その辛さを神とどのように乗り越えていくかを語るのです。

◆ そのことを羊飼いと羊に譬えて語ります。羊は集団で生活し、臆病で視力が弱いと言います。先に行くものが道を誤れば他のものもそれについて行ってしまいます。聖書の世界の舞台となっているパレスチナ地方は、のどかな牧草地というよりは乾燥地帯であり、乾いた土が剥き出しの場所も多い土地です。きちんとした知識や経験がなければ草地や水場にたどり着くことはできません。そこで大事なことは、誰が群れの先頭に立っているかです。詩編は、その群れの先頭に立つのが羊飼いである神なのだと宣言します。羊飼いは羊を養うために荒地を超えて牧草地へと羊を導く使命を帯びています。そのためには見渡す限り広がった荒れ地を超えて、丘をいくつも超えなくてはなりません。羊飼いは目的地とそこに至るまでの道を知っています。一方、羊たちはそれを知りません。その羊に譬えられるわたしたちも、人生のすべてを見渡すことはできません。もしわたしたちが目に映る厳しさに怯(ひる)んで諦めてしまえば、目的地にたどり着くことは叶わないと思います。

◆ 見えることだけに捕らわれて、恐れ、諦めてしまう言い訳を探している、人はそのような現実に立ってしまうことが少なくありません。「わたしは目に見えるものしか信じない」という人がいます。手に取って確認できるもの、実証できる事柄、そういうものしか信じようとしない、そんな生き方です。「信じられるのはお金だけ」という人もいます。確かにお金には価値があります。お金には硬貨だけではなく、千円札、五千円札、一万円札という紙幣もあります。紙幣はさみで切ったり、手で破ったりできますし、火をつければ燃えてしまいます。その点では広告の紙や新聞紙など他の紙と同じです。しかしお金という紙には価値があるとみんなが認めています。「お金には価値がある」という信用もまた、目には見えません。「お金だけしか信じない」という人も、その目に見えない信用というものを信じているのです。

◆ 私たちが生きて行く上で大切なものの中にも、目には見えないものがたくさんあります。例えば空気、酸素、窒素、二酸化炭素、それらがバランスを保っていてくれるので、私たちは生きて行けます。他にも、見えないけれど大切なものがいろいろあります。親が子どもを愛する、家族を愛する、恋人を愛する、その愛も目には見えません。もちろん人はその見えない愛を物や行為で表しますが、それは気持ちの一部分にしか過ぎません。愛は見えませんが、確かにわたしは愛されている、愛がわたしに注がれていると感じるからこそ、私たちは生きてゆけます。また育てられて行きます。

◆ 神という存在もまた、目には見えません。しかし姿を見たこともなく、声を聞いたこともない神という存在を、人間は感じながら生きてきました。信じようとしてきました。そしてその信じる気持ちを抱く中から、時に大切な生き方を作り出してきました。「見えない存在」だからこそ信じるのです。「見えたから、証明できたから信じる」というのは、「確認している」ということであって、「信じる」ことではありません。神は目に見えない、だからこそ信じる。そしてその信じる気持ちを抱きながら作り出してきた生き方は、「神などいない。目に見えるものしか信じない」という生き方とは、きっとどこかでちがってくるだろうと思うのです。

◆ 神に頼らずに生きて行ける人もいるでしょう。でも多くの人間はそんなに強くはありません。見えないけれど確かに自分を支えてくれる存在を求め、頼ろうとします。見えないものを信じる心を抱いて生きている方が豊かに生きられると私は納得しています。ある人が幼稚園に通う我が子に「幼稚園で一番えらいのは誰」と質問したそうです。するとその子は、園長や担任の教師ではなく「いつも自分と一緒にいて遊んでくれる友だち」と答えたのだそうです。損得でもなく仕事でもなく、わたしと一緒にいてくれる存在、それこそが聖書の神です。神は私たちには見えませんけれど、見えないものを信じる心を抱いて生きることの豊かさ、心地よさをたくさん味わいながら、人生の日々を刻んでいきたいと思うのです。

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