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2020年6月28日 説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.6.28  ヘブライ人への手紙12:16-29   「都の情景」     望月修治   

◆ ヘブライ人への手紙は新約聖書に納められている27の文書の中で、一風変わっているとともに、読む者の思いを引きつけ、言葉が印象深く刻み込まれていくという体験を読む者に与えてきた手紙です。

例えばこの手紙の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という言葉を知っている方は少なくないと思います。親しみを感じる手紙です。しかしある人がこの手紙について、「ロープとスパイク、そして松明を手にして、ヘブライ人への手紙という真っ暗な洞窟に下りていく」と表現していました。真っ暗な洞窟だというのですが、その理由は、まずこの手紙を書いたのが誰なのか分からないからです。3世紀、古代キリスト教最大の神学者と言われたオリゲネスはこうコメントしています。「ヘブライ人への手紙を誰が書いたかは、実際のところ神だけが知っている。」

◆ 手紙の書き手だけではありません。この手紙の受取人すなわち最初の読者はどういう人たちであったのか、具体的にはよく分かっていません。またいつ書かれたのか、それもきちんと絞り込むことができません。紀元60年から100年頃というアバウトな幅でしか推測できないのです。誰が、誰に宛てて、どこから、いつ書いたのか、この基本データが欠けている手紙です。

◆ 紀元60年から100年頃とかなり幅はありますが、確実に言えることは、この時代はキリスト教会にとってたくさんの困難に見舞われていた時代だったということです。この手紙には教会が受けた激しい迫害の記録が残されています。それは過去を振り返って、そういうしんどい時があったねというだけではありません。この手紙の受取人である、ある場所のある教会に属している人々が今直面している現実でもあるのです。12:3には「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」とあり、12:11には「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」とあります。この文言から次のように推測できます。この手紙の受取人の人々は倦み疲れています。また10:25には「ある人たちの習慣に倣って集会を怠る」とありますから、礼拝への出席者は減っていて、みな自信を失いつつあるのです。人々は教会を去り、信仰から離れようとしているのです。

◆ 教会の人々は道が二つに分かれるギリギリのところまで来ている、この手紙の書き手はそのように今、目の前にある事態を、危機感をもって見ています。二つに裂かれるその先の道が今日の箇所に記されています。ひとつの道は18-19節です。「手で触れることができるもの、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、聞いた人々がこれ以上聞きたくないと願った言葉」とあります。・・いったいこれらは何のことなのでしょうか。謎めいた言葉が並んで、面食らってしまいそうです。はてな(?)マークがいくつも頭の中を巡ります。

◆ まずはこれらの言葉をときほぐすことから始めないといけません。21節に「モーセ」の名前が出てきます。これがヒントになります。旧約聖書の出エジプト記19章にモーセがシナイ山に上り神から十戒を授けられたという出来事が記されています。その時の物語からピックアップされた言葉が18-19節に列記されているのです。出エジプト記19章には、こんなことが書かれているのです。モーセはエジプトから一緒に脱出してきたイスラエルの人たちを荒野に残して、一人シナイ山に上って行きました。三日目の朝のことです。突然、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に起こり、角笛の音が鋭く鳴り響きました。それは主が火の中を山に上られたからだというのです。人々は恐れ、山から下ってきたモーセにこう言いました。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」。
 
◆ 神が語る時の恐ろしさを強調するいろいろな現象を、ヘブライ人への手紙の書き手は引き合いに出しているのです。それは自然の脅威に満ちたもの、すなわち燃える火、黒雲、暗闇、暴風などの現象、そして神から発する威厳に満ちたものとして、ラッパの音、人々がこれ以上語ってもらいたくないと願った言葉の声です。出エジプト記に記されている神を、ヘブライ人の手紙の書き手は、人々が死ぬかも知れないという恐怖を抱くほどの威厳と力に満ちた神、超然と人間の前に立ちはだかる神、人間から遠く隔たった神だと解釈したのです。シナイ山で神はモーセを通してイスラエルの人々に十戒を授けられた、という恵みの面よりも、神の恐ろしさ、人々の恐怖の方が強調されています。その理由は、人間が十戒そして律法という掟を守ること、つまり自分の精進や研鑚、努力によって救いに導かれようとすることの限界を確認するためです。

◆ もう一つの道は22-24節です。それは神が独り子を十字架につけるというとんでもないことを起こしてまで、罪深い人間を赦すと宣言したこと。相手を、隣人を利用したり、見下したり、除け者にしたり、差別したりする現実の中でしか歩めない人間を、それでもそのまま受けとめ、生かす。そして生き方、命の用い方を、共に生きることへと方向を転じ、組み立て直すことを求める神の道です。この道こそ分かってほしかったからでしょう。9つも具体例を挙げています。「シオンの山」「生ける神の都」「天のエルサレム」「無数の天使たちの祝いの集まり」「天に登録されている長子たちの集会」「すべての人の審判者である神」「完全なものとされた正しい人たちの霊」「新しい契約の仲介者イエス、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」この9つです。一つ一つの事柄についての説明が必要かも知れませんが、省きます。全体として和らいだ感じ、恐怖とは正反対のイメージが伝わってくる、それを味わってくだされば十分です。ただ最後の「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」については説明が必要かも知れません。「アベルの血」というのは、旧約聖書の創世記4章のカインとアベルの物語で、神が弟アベルの献げ物をよしとしたことに怒った兄カインが弟アベルを殺し、流された血のことです。「立派に語る注がれた血」はイエスが十字架で処刑された時に流された血です。パウロが「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と語った、聖餐式の制定の言葉として読まれているキリストの贖いの血です。

◆ イエスが十字架にかけられて亡くなった。その喪失感の中で、人々が気づいたことがありました。パウロはそれを「生きるにしても、死ぬにしても、わたしは主のもの」であり、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」だという表現で語りました。私たちが味わうさまざまな体験、それを人は色分けして、よいこと悪いこと、益になること無益なこと、意味のあること無駄なこと、と価値判断を下し、人の生き方を評価するというだけでなく、自分への評価も下し、ときには自分を裁いてしまうこともあります。けれどそのすべての出来事、すべての体験は主のものだとパウロは語ります。そしてキリストが死に、そして生きたのは、そのいずれの状態にいる時も、その人の主、救い主となられるためでした。

◆ イエスは、わたしたちの悲しみの中心に立つ。それはわたしたちの悲しみを内側にではなく、神に向けることを促すためです。そのことをヘブライ人への手紙は伝えたかったのではないかと思いました。そのことを忘れない、思い起こし、折りに触れて心に刻み直して生きる、それを神は願っておられる。そのことに心を向け直す道にこそ、人々を向かわせたい。その強い思いを今日の個所から受けとめるのです。

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