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2020年2月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.2.2 ヨハネによる福音書2:13-25 「ここは誰の家なのか」  望月修治   

◆ エルサレムの神殿が舞台となって起こった出来事が今日の箇所に記されています。神殿の境内の広い中庭に身動きするのもままならないほど人で溢れています。過越の祭が近づいていたからです。ユダヤで最大の祭りです。過越の祭りの時にはユダヤ国内だけではなく遠い異国からも多くの巡礼者がエルサレムにやって、神殿は参拝の人で溢れかえるのです。境内にいるのは参拝の人だけではありません。商人たちの市が並びます。参拝者が礼拝をする時に神に捧げる犠牲の動物を売るのです。彼らは祭司たちの公の許可を得て商売をし、その見返りとして多額の上納金を神殿に納めていました。

◆ 商人とともに目につくのは両替人たちです。当時、すべてのユダヤ人は過越祭までに、神殿に半シュケルの税金を納めることになっていました。半シュケルは当時のほぼ2日分の労働賃金に相当します。神殿に納めるお金はユダヤの特定の貨幣でなければなりませんでした。外国の貨幣は「けがれている」ので神殿にささげるにはふさわしくないとされていたからです。そのため参拝者は両替人の所に行って指定されている貨幣に両替してもらわなければならなかったのですが、両替人は半シュケル替えるごとに13%程度の手数料を取りました。1日の労働賃金を分かりやすく1万円とするならば、その2日分2万円を税金として納めた上に、両替の手数料として多くの参拝者は2,600円程度の手数料を払わなければなりませんでした。この額は当時の労働者にとって相当な負担でした。両替人は参拝者からこうした手数料を取ることで莫大な利益を得ていました。参拝者たちが律法に従って参拝しようとすることが、両替人にとっては最高の商売の機会となっていたのです。

◆ これが今日の箇所に語られている出来事の舞台となったエルサレム神殿の実態です。この神殿でとんでもない事件が起こりました。起こしたのはイエスその人です。境内で牛や羊や鳩を売る商売人、そして両替人たちの台をひっくり返して怒りをあらわにし「私の父の家を商売の家とするな」「この神殿から出て行け」と声を荒げたというのです。「あのイエスがこんなことを」と思ってしまいます。明らかにイメージダウンです。にもかかわらずヨハネ福音書は、エルサレムでのイエスの公の活動の第一歩をこの衝撃的な出来事から記しています。救い主であるイエスの物語を今から語ろうというのに、出だしからつまずいてしまいそうです。それなのになぜ・・・。ヨハネはこの時のイエスに、救い主であることの深い意味を見出したからだと思います。それが今日の箇所のメインテーマです。

◆ 読み解く手がかりはユダヤの人々と神殿との関わりにあると思います。神殿は、旧約聖書の時代からのユダヤの歴史、そしてユダヤの人々の暮らしにおいて、とても重要な意味を持った場所でした。ユダヤ人の生活の基盤となっていたのはユダヤ教です。そのユダヤ教の特色は何かといえば、神殿と律法です。神の前に犠牲を捧げ、罪の贖いをなす場所としての神殿、そして神の教え、戒めが書かれた律法の書である聖書、この二本柱を大切にする宗教でした。ところがその柱の一つが失われるのです。紀元前6世紀のバビロンの捕囚です。当時、新バビロニア帝国のネブカドネザルがエルサレムを攻略し、神殿を破壊し、有力な国民や労働者をバビロンに連行した出来事です。二本柱の一つの神殿が破壊され、捕囚に連れて行かれ、数世代を経るうちに、ユダヤ教はその性格を変えていきました。律法と呼ばれる聖書に書かれている戒めを遵守する宗教へと性格を変化させたのです。神殿は特別な土地と結びつき、巡礼や参拝という宗教的な行為を求めますが、聖書の教えを重視する宗教は、特定の場所とは結びつく必要がなく、聖書があればどこにいても宗教的行為が可能です。

◆ 神殿よりも、聖書に書かれている律法を心の拠り所とするユダヤ教へと性格を変えていきました。この変化は、世俗的なものから区別された特別な場という神殿の役割の終わりを本来示すもののはずなのです。しかし、そのことを明確に自覚させられるには、イエスの登場を待たねばなりませんでした。バビロン捕囚から解放され故国ユダヤに帰還した人々は、神殿の再建にまた取り組むからです。第二神殿です。彼らは荒れ果てた故国の情景の中に、神の臨在を感じ取ることはできなかったのだと思います。第二神殿はソロモンの神殿とも呼ばれていた第一神殿とは、規模も壮麗さも到底及ぶべくもないものでした。それでも神殿を建てなければ、神の臨在を確かめることはできないとなお考えたのです。神の言葉によって立ち、生きる、そのためにはやはり見える形を求める。神殿を建て、そこに神の臨在のしるしを見る、神を自分たちの理解できる枠に当てはめようとする。そういう道をやはり人間は求めるのです。そして安心を得ようとするのです。

◆ このことはイエスの時代にさらに拍車がかかりました。ヘロデ大王がエルサレムの神殿の大改築を行ったからです。ヘロデは紀元前37〜紀元前4年までユダヤを統治した王です。この改築事業によって神殿は壮麗な姿に建て直されることで、そこが神聖な場所であるという受けとめ方に一層拍車がかかりました。人間は神聖な場所だと言われれば言われるほど、その場所に行って、神聖な領域に入り犠牲を捧げ礼拝をしたいと思いを募らせます。神殿体制を支えていた大祭司や祭司たちは人々から税金や献金を集め、神殿に巨万の富を蓄えていました。

◆ この神殿の情景に、イエスの激しい思いが打ち込まれていったことを福音書は伝えているのです。縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに『それを持ってここから出て行け。私の父の家を商売の家とするな』とイエスは激しい叱責を浴びせたのです。神殿での商売が行われていた中庭は「異邦人の庭」と呼ばれている場所です。異邦人専用の庭という意味ではありません。異邦人はそこまでしか入れないという意味で、そう呼ばれていた場所です。参拝にきた異邦人が神殿の中で祈ることを許された唯一の場所、礼拝の場が犠牲の動物を売る商人たちや両替人たちには商売の場、金儲けの場となっていました。ユダヤ人は、異邦人にとって唯一の礼拝場所をあってなきが如くぞんざいに扱い、ないがしろにしていたのです。

◆ この神殿の姿にあらわに示される人間の罪の現実、破れほころんでしまっている現実に向かって、イエスは「崩してみよ」「この神殿を壊してみよ」と迫るのです。そして「三日で建て直してみせる」と語るのです。神の強い意志を告げようとする思いのこもった言葉です。「三日で建て直す」、これは言うまでもなく、イエスの地上での生涯の終わりが十字架の死であること、そして3日目の復活を意味しています。イエスの怒りは、苦しめられている人の側に立った痛みの共感から来るものでした。人の痛みや苦しみに対する傍観者の態度、「他人の痛みなら3年でも我慢する」わたしたちの寛容さに向けられたものです。そしてまた、それを温存させる宗教の制度や社会の仕組み、正義に反する価値観に向けられたものだと言えます。

◆ 十字架はその人間の罪の重さ、的を外して生き続けることの深い虚しさを示します。しかしイエス・キリストの十字架は罪を追及するためではなく、神による赦しがどんなに大きなものであるかを啓示する出来事です。神の赦しとは、わたしたちがどのような状況にあったとしても、そのわたしを必要なのだと語り、用いることを決してやめないということです。

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