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2019年12月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.12.29 マタイによる福音書2:1-12  「星よ、ひそかに」 望月修治       

◆ マタイによる福音書は、イエスの誕生の次第を物語ったあと、東の方から占星術の学者たちが救い主を拝むためにベツレヘムへやってきたという出来事を語っています。古代の占星術は厳然として動かないように見える北極星を中心に成り立っていました。ところが星が動き出したとマタイは語るのです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」占星術の常識が覆されます。当時の世界観では星は動かないはずでした。その動かないはずの星が動いた。そのことで占星術の学者たちは気づかされたのです。星が世界のすべてを定めているのではなく、この動かないはずの星を動かす方がいるのだ。星は規則正しく運命を語るかのように動くのではなく、星自身が予期せぬ方向へ、人間の思いや経験を超えて動き出す。この出来事が学者たちを旅立たせたのです。福音書記者のマタイはこの情景に託してクリスマスの意味を語ろうとするのです。

◆ 占星術の学者たちが知ったことは、星によって「運命」が定められた人生を人は歩むのではなく、星を動かす方に守られ、導かれて生きるのだということでした。これまで世界には自分たちの経験上知らないことは起こらないと彼らは考えていました。だからこそ人々の今日のまた明日の運勢を占ってみせることができたのです。しかし、彼らは予期せぬ方向へと動く星を見てしまったのです。見てしまった後に、彼らはもはや今までの経験に基づいて仕事を続けることはできなかったのです。自分たちの人生は星によって定められた運命通りに刻まれていくのではなく、星を動かす方がおられ、その意志を示し、自分たちを導かれる。学者たちはそのことを発見し、気づかされ、ユダヤに向かって旅立たずにはおれなかったのです。「東の方からエルサレムに来て」とマタイは記しています。「東の方」とはペルシアのあたりを指しているのでしょうか。もしそうならユダヤまでの距離は1千キロを超えます。砂漠や荒れ野を越えなければなりません。野獣や盗賊に襲われ、命を落とす危険もありました。そのような旅を重ねてまでエルサレムに来たのだということをマタイは「東の方からエルサレムに来て」という言葉に込めています。彼らは星を動かす方がおられることに気づかされたとき、その方を信頼して、旅に出たのです。

◆ エルサレムにやって来た学者たちはこう尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 当時のオリエント世界で学者たちのいた国は先進国です。その国から、世界の周辺と見なされていたユダヤに王が生まれたというので拝みに来たというのです。これは占星術の学者たちに、それまでの生き方や世界観を捨てて、新しい生き方を始めるという、根本的な方向転換が起こったことを示します。

◆ マタイが記すイエスの誕生物語には、実はもうひとつ大切なことが語られています。星を動かす方がいることを体験した学者たちは、傍観者でいることができなかったということです。具体的にそれは幼子を拝んだ時の学者たちの行動に示されています。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」ことです。このとき学者たちが宝の箱を開けて献げたもの、それは宝ではなく占星術師としての彼らの商売道具であったとする解釈もあります。もしそうだとすれば、それは彼らが占星術師を辞めたということを意味します。今まで自分たちが身を置いてきた占星術の世界では、人間の運命はすでに決められているがゆえに、諦めと安心が同居する日々を歩むのだとされてきました。しかしそういう生き方は無意味だと知った。だから彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と語られているのです。

◆ クリスマスの物語が告げるのは、捨てるという経験であり、その一方で献げるという経験です。占星術の学者たちが「宝の箱を開けて、献げた」という、それは彼らが大切にして来たもの、生きる基盤、支えとして来たものを差し出したということです。ましてそれが彼らの商売道具であったとすれば、彼らの生きることの基準がまったく変わってしまったことを意味します。

◆ イエスの誕生、救い主の誕生は十字架で生涯を終えたイエスの命の物語の始まりです。クリスマスの出来事をイエスの十字架の死を抜きにして読むことはできません。神は人間を得るために、愛する者を失いました。後にイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき「これはわたしの愛する子」と宣言した、そのかけがえのない存在を献げ、失いました。生きることの基準、座標軸が全く新しいものに置き換えられる、この新しさは古いものを捨てることとセットです。古いものを捨てるということは、言い換えれば傍観者でいることをやめることです。ドイツのミュンヘンから130キロほどの距離にある村オーバーアマガウで、10年に一度行われる「受難劇」「パッションズシュピーレン」は有名です。村人たちは総出で受難劇を演じます。そこでは誰も傍観者ではいない。村人の誰もが、何らかの形で役割をもち、受難劇に参加します。マタイ福音書が物語るイエスの誕生物語もまさにそのような出来事なのです。星が動くのを見たのなら不参加はありえない。占星術の学者たちはこの出来事の傍観者でも、報告者でも、研究家でもありません。彼らはこの出来事に関わり、参加するのです。クリスマスの救いの物語は、傍観者のように見ていたら分かる出来事ではありません。味わうことを求めています。体験の輪に加わることを促します。救いは経験されなければなりません。占星術の学者たちはそのために旅立ったったのです。

◆ クリスマスの物語に登場するのは二つのタイプの人々です。ひとつは占星術の学者たちのように、救い主の誕生の出来事と向き合い、受け入れ、自らのこれまでの生き方を捨てて、新しい生き方を得ていく人たちです。もう一つの人々は、これまでの生き方にこだわり、これまでの自分を守りたいがゆえに、新しくなることを拒否する人たちです。それを象徴するのがヘロデです。彼は失うことを拒むが故に不安になります。しかしそれはヘロデだけではありません。圧倒的多数の「エルサレムの人々」も同様です。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と記されている通りです。彼らもまた変わりたくなかった人たちです。

◆ ヘロデも、エルサレムの人々も、彼らが願ったことは、クリスマスの出来事があたかもなかったかのように生きることでした。ヘロデはそのために占星術の学者たちに、クリスマスの出来事を調べさせ、その上でこの出来事に関わる全てを消し去るために、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子をすべて抹殺するように命じました。エルサレムの人々も占星術の学者たちのようには生きない。彼らはあたかも何事もなかったかのように生きようとしたのです。救い主の話も、輝く星も、すべてなかったかのように生きているのです。それが上手な生き方だと考えたからです。マタイが幼い救い主に最初に出会ったのは、ユダヤの人々ではなく、異邦人である東の国の占星術の学者たちであったと記した理由はそこにあります。

◆ 占星術の学者たちは、何事もなかったかのようにあくまで生きようとする者に、クリスマスのあと、何をすべきかを示してくれるのです。彼らは救い主の誕生を祝ったあと、自分の国へ、自分の生活の場へと帰って行きます。救い主に出会ったら、そのあとには楽園が用意されているというのではありません。学者たちは「帰って行った」のです。自分たちが今まで生きて来た場所に帰るのです。ただし来た時とは「別の道」を通って自分たちの国に帰って行くのです。自分たちの国に帰って彼らを待っているのは、旅に出るまでと同じ世界です。しかしそれを受けとめる見方、視点を変えられて彼らはそこに帰って行くのです。それが「救い」です。救われるというのは、生きることへの視点を新たにされて、自分が生活している場所、生きている場所にもう一度立ち直すことです。帰って行くことです。それが救い主と呼ばれたイエスが人々に、そして今を生きる私たちに語り続けている「救われる」ということの意味です。視点を新しく変えられ、生活を組み立てなおし、今生きている場で生き直すのです。その促しをこのクリスマスの物語は東の国からやってきた占星術の学者たちの姿を通して私たちに語りかけています。

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