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2018年8月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.8.5 マルコによる福音書10:13-16 「この子供たちのように」  望月修治   

◆ 今日は平和聖日です。そして広島、長崎には1945年8月6日と9日の原爆投下から73回目の夏が巡ってきています。女優の綾瀬はるかさんが2010年から毎年夏にTBSテレビの制作による「綾瀬はるか『戦争』を聞く」という番組に取り組んでおられます。広島生まれの綾瀬さんはご自分の祖母の姉が原爆で亡くなられました。広島、長崎の被爆地、奄美、沖縄、ハワイ、東北、そして昨年は瀬戸内海にある広島県大久野島、戦前・戦中に日本陸軍が密かに毒ガスを製造していた島を訪れました。それぞれの場所で戦争体験を聞き取っていく旅を続けておられます。綾瀬さんのライフワークになっています。2014年、こどもの頃から何度も訪れた広島平和資料館を綾瀬さんは訪れました。その時に、普段は展示されていない遺品を学芸員から見せてもらいました。ひと束の遺髪、焼け焦げた水筒、バラバラにちぎれたモンペ、そして遺影、いずれもあどけなさが残る少女たちのものでした。73年前の8月6日、一発の原子爆弾によって、広島では7200名もの学徒が命を落としました。多くは国の命令で工場や作業場に動員された子供たちでした。特に被害が多かったのは、10代前半の中学1、2年生でした。原爆投下の日8月6日に、広島で動員されていた学徒の数、およそ2万7000人、原爆死およそ7200名、このうちおよそ5900人の子供たちが建物疎開で被爆し、その短い命を終えました。建物疎開というのは、空襲を受けたとき、火が燃え広がらないように、家屋を取り壊し、間引きをする作業です。軍関係者はこの作業に幼い生徒たちをつかせることを強要しました。学校関係者は、口を揃えて子供たちが危険な作業に出ることに極力反対しました。しかし軍関係者は承知せず、軍責任者であった中将は左手の軍刀で床を強く叩き、作業遂行を強要しました。学校関係者の抵抗は虚しく一蹴され、そして屋外での作業についていたため数千度の熱線の直撃を受け、命を落としました。戦後73年、あの戦争を体験し、それを語りうる人たちが亡くなられて、直接の証言を聞く機会が少なくなっています。

◆ 同志社教会のこどもの教会でも毎年、戦争のこと、平和のことを、ゲストをお招きして戦争体験の話をお聞きしたり、戦争のことをテーマにした絵本を読んで考え合っています。今年の夏期キャンプの主題聖句は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)で、宮部先生が琵琶湖畔での朝の礼拝で、平和を実現するってどういうことかを、ノアの箱舟の物語を素材にしてお話ししてくださいました。3年前、2年前には工藤弘志先生から話をお聞きしました。そのお話に聞き入っていた一人の子が言いました。「戦争って始めてしまうと、終わるのはむずかしい。」

◆ 「平和を実現する人々は、幸いだ」そう語ったイエスは、その思いを様々な出会いや出来事の中に滲み込ませながら人々に語った人だと思っています。今日の聖書箇所に「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」 この言葉は聴く者の心の中で巡り出す言葉です。子供のように受け入れなければ「決して」神の国に入ることは出来ないとイエスは語りました。「決して」とは厳しい言葉です。絶対に「神の国に入れない」すなわち神の働きが本当には分からないままだというのですから、今日の箇所は「ああそうですか」と通り過ぎておしまいというわけにはいかないのです。「子供のように」とはどういうことか、そこを解き明かさなければなりません。

◆ 児童文学者であった灰谷健次郎さんは次のような言葉を残しました。「人間を考えるのが、もの書きの仕事です。その人間の中でも、一番おもしろいのが子供です。子供が一番神秘的で、奥深いと思います。私は毎日、海を見て暮らしていますが、海は一日として同じ日がありません。だから見飽きるということがないのです。子供も同じです。子供は一日いちにち変わっていきます。それを見たり考えたりすることは、とても楽しいことだし、何よりもそうすることによって自分自身が変わるという恩恵を受けられるのです。」 「子供は一日いちにち変わっていく」その柔らかさ、体験するものを受けとめる自由さと奥深さ、それが「子供のように」とイエスが語ったことの中身だと思います。

◆ 今日の箇所には、そのことをイエスが語ることになった一つの事件が記されています。群衆が集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられたと10章1節に記されています。そこへ幾人かの人たちが子供たちを連れてイエスの元にやってきます。男親もいたかも知れません。しかしおそらく多くは母親たちであったのではないか。当時、著名なラビ、律法の教師がいると、そのラビに触れてもらって祝福を受ける習慣がありました。母親たちはおそらく素朴に、自分の子供への祝福を願ってイエスの所にやってきたのだと思います。

◆ しかし彼女たちは、弟子たちから突き放すような対応をされます。「弟子たちはこの人々を叱った」。「叱った」と訳されている言葉は8:32でイエスが第1回目の受難予告をしたときにペトロが「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と訳されている箇所で「いさめる」と訳されている言葉と同じです。(エピティマオー)。ペトロがイエスをいさめたのはイエスの十字架への道行きを遮るため、そんなことはおよしなさいと押しとどめるためでした。今日の箇所では弟子たちが女性や子供がイエスに会おうとする、接触しようとすることを遮るために叱ったのです。女や子供がガヤガヤとやってきて、私たちの先生イエスにまとわりついて困る、だからそれを遮ったというのです。

◆ マルコで福音書は「しかし、イエスはこれを見て憤った」と記しています。憤ったと訳されている言葉(アグナクテオー)は「激昂する」「激怒する」という意味です。ですからイエスは実に激しい怒りを露わにして怒鳴ったのです。私たちは机を激しくたたいて怒りをあらわにするという表現をしますが、この時机でもあったとしたら、おそらくイエスがこぶしを振り上げて机を激しくたたく音が聞こえたであろう、そんな場面です。子供をイエスのもとに連れてこようとした人々を弟子たちが叱ったことに対して激しく怒るイエス。それもたとえてみれば机をたたいて怒りを露わにするという激しさを示しました。

◆ イエスは子どもが私のところにくることを妨げてはならないと語りました。わたしたちはさまざまな命の状況、命の形を持ってこの世に神が送り出される存在と出会っていきます。しかしながら時にその違いをもった命に対して、その存在をそのまま自らの所に抱きとめ、受けとめ、招くことに人は優しく向き合わないことが少なくありません。拒絶を表にあらわにするということもあります。私たちの意識の中に、思いの中に、子どもがそのままの姿でこちらに来ることを拒否する、受け止めることができない、どこかで子どもであるとう命の状況を軽くあしらったり、否定しようとする思いが働くことがあるのではないでしょうか。

◆ こどもの教会夏期キャンプの朝の礼拝で宮部先生は平和を実現するということについてこんなふうに話して下さいました。ノアの箱舟の中にはあらゆる動物が、ひとつがいずつ入った。お互いにいろんな違いを持っていてぶつかり合ったりすることもあったかも知れないけれど、でもみんながお互いの命を大切にしようとした、その世界が箱舟の中で生まれていた。それが平和を実現するということだと思いますと、こどもたちにそしてスタッフに話してくださいました。「子供たちをわたしのところにこさせなさい」と語ったイエスは、ノアの箱舟の物語に描かれている命への思いを抱き、受け継いでほしいと私たちにも強く、机を叩くほどに思いを注ぎ出し、促しておられるのです。

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