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2018年4月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.4.1 マルコによる福音書16:1-8 「向かえ、再会の場へ」   望月修治   

◆「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのか。あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 復活の朝の喜びの叫びです。死は打ち破られたという宣言がイエスの墓から響き渡ったのだと福音書記者マルコは記します。十字架につけられた者が復活した。その信じられない知らせがマルコの伝えるイエス・キリストの福音のはじめなのです。他のどんな遺体とも違って、イエスの遺体はあるはずのところにありませんでした。イエスの遺体は確かに墓に納められました。しかし3日目の朝、墓は空であった。それがマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書に共通して記されている復活の証明の仕方です。「空の墓」は人間の最後の期待をいわば裏切ります。人は死ねば、遺体は墓に納められ、そこに留められる。そのただ一つ確実なことを見事に打ち砕いて、解けない謎を人間にもたらします。人間の理性では説明し尽くせない出来事としてわたしたちに差し出されます。また人間のいかなる力でも作り出せないことを認めさせるのです。

◆ 福音書の記者たちはそのために、イエスの物語の読者を復活のイエスに出会わせようとしてそれぞれ復活と復活後の物語を書いています。マルコは、大変特徴的で意味深い復活物語を書いています。マルコ福音書は復活したイエスの出現を物語りません。いや16章9節以下にマグダラのマリアや二人の弟子たちに復活のイエスが現れたと書いてあるではないかと言われそうですが、この箇所は後から書き加えられた箇所です。マルコは16章8節でこの福音書を終えていたのです。最後は次のように締めくくられています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」読者はこの後何が起こるのか知りたいのに、教えてもらえないという中途半端な状態に置かれることになります。物語にけりをつける代わりに、ガリラヤに行くように弟子たちを招き、物語を開かれたままにするのです。ひいては読者にもガリラヤへ行くようにと招くのです。

◆ これはどういうことなのか。ガリラヤはそもそもマルコが福音書の始まりに記していた場所です。イエスがガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたということが語られています。復活のイエスのことを知るために、イエスが復活したとはどういうことかが分かり納得するために、ガリラヤへ行くことをマルコは促します。すなわちマルコは福音書を最後まで読み終えた読者を物語のはじめへ送り返すのです。福音書を読む場合に1回目と2回目以降とで大きく違ってくるのは、2回目以降は、イエスが復活したことを知って読む、「復活したイエスの物語」として福音書を読むことになるということです。福音書の中で物語られている奇跡物語は、どれも復活したイエスが自分たちにもたらす力と働きを表現している物語として読むことになるのです。

◆ 読書というのは、本を繰り返し読むと、内容への理解や発見や共感が段階を追って深まって行きます。気付きの窓が突然開いて、それまで読み過ごしていたことを発見するということが起こります。今までどうして気付かなかったのだろうかと思う、そういう体験を私たちは味わって来たはずです。幼い子供が同じ絵本を何度も、何度も持ってきて「読んで、読んで」と求める。それは、絵本を読んでもらうたびに、絵本の世界で旅を重ねるたびに、新しい気づきがその子の中で起こるからです。楽しくてワクワクするからです。それをまた味わいたいと思うからです。そうすることで目に見えない世界を体験し、心が踊り、大切な何かを感じ取って心が満たされていく豊かな充足を味わうからです。

◆ マルコは、そのような方法でイエスの復活ということはどういうことかを味わい体験する道を提示しているのです。イエスの復活があったか、なかったかというアプローチの仕方では復活は何も明らかにはしてくれません。生きる力にはならないのです。絵本を読むとき、そこに描かれていることを、あったかなかったか、嘘か本当かという読み方はしません。そのような読み方をするのは絵本の読み方のTPO、マナーを分かっていないということになります。聖書も同じです。奇跡物語も復活物語も例外はありません。

◆ 信じるから復活があるのではなく、復活があるから信仰があるのです。ですからマルコは復活したイエスに出会わせ、信じるという生き方へと私たちが向かうことを願って、福音書を読み終えた者が、また始まりに帰っていくように福音書を構成したのです。そのことをマルコは福音書の冒頭に実は記しているのです。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き出されています。この部分は、原文では「初め」「福音の」「イエス・キリストの」「神の子」という順番になっています。当時の文書は、いちばん重要な文言を最初にもってくるのが一般的でしたから、この福音書を読むときには「初め」ということがいちばん大切だと文体でも示していることがわかります。

◆ マルコ福音書は16章8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」という言葉で終わっていた、そのことを心に留めて、読むならば、女性たちが空っぽの墓を目の当たりにした場所でイエスの甦りを告げられたとき、墓を逃げ出し、震え上がり、正気を失ってしまったことをこの福音書は大事にしたいのだということが分かります。興奮して、帰るなり、誰にでもしゃべって聞かせたくなるようなものではない。人間はただ沈黙するよりほかにないことが起こった。それが復活なのだというのです。

◆ 人は神の出来事に向き合うとき、戸惑い、恐れ、不安になる、そのことをマルコ福音書は復活をわたしたちに届けるときの大切なこととしているのです。それは戸惑いや恐れや不安を抱いている者に、もう一度初めに戻ってイエスの物語をたどりなおすという生き方を示します。それが「ガリラヤで復活のイエスと新しく出会う」という道でした。復活のメッセージは、復活が人間の営みの連続の中にあるのではなく、裏切りという悲劇と絶望のただ中で、神の行為として起こされたのであり、更にその神の業と新しく出会うのはガリラヤという具体的な場と切り離すことが出来ないのだと語るのです。私たちにとってガリラヤに帰るというのは、この福音書の最初に立ち戻って読み直すということです。

◆ 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」この言葉からイエスが洗礼を受けられたこと、いろいろな奇跡を行われたこと、それらの物語をまた辿り直してみることです。何度も読み重ねてみることです。そうすることによって、人は復活という新しい命の形を神が約束してくださったことの意味を、知識としてではなく、心の中にストンと落ちていく体験として味わっていく、道はそこにあります。分からなくても、繰り返しはじめに帰ってまた旅を起こし、イエスの物語を読み直すという具体的な営みを通して復活という出来事の持っている力、働き、奥行き、汲み尽くせない深さに気づく窓を開けることができるのです。そこから今まで見えなかった世界が新しく見えてくる。神は命を死で終わらせるのではなくて、まったく違った形で用いる道を示してくださっている、そのことを体験する旅へと私たちは招かれているのです。

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