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2018年3月4日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.3.4 マルコによる福音書8:27-30 「クロスする告白と予告」  望月修治    

◆「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。」今日の箇所にはガリラヤ湖からさらに北へ40キロほどの距離、イスラエルの北限に位置する町フィリポ・カイサリアにおいて、イエスと弟子たちの間で交わされた会話が記録されています。この地名は聖書の中で、今日の箇所、「ペトロ、信仰を言い表す」と見出しがつけられているこの記事だけに出てくる地名です。同じ記事がマタイ福音書16章とルカ福音書9章に記されていますが、ルカ福音書にはこの地名は記されていません。したがって聖書の中では2回だけ、マタイ福音書とマルコ福音書に、それぞれ1回ずつ出てくる地名です。ですからこの地名に興味が湧きます。マタイとマルコはなぜこの地名を記したのか。イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と尋ねたというフィリポ・カイサリアとはどんなところだったのか、そしてイエスはどんな口調で弟子たちに問いかけたのだろうかとさまざまに思いは巡ります。

◆ フィリポ・カイサリアは、荒れ野や乾いた地が広がっていたユダヤの中で、水と緑に恵まれた土地です。それゆえこの地は権力者たちの所有地とされ、別荘が建てられたりして、貧しい者たちが踏み込めない場所にされていました。「カイサリア」というのは「皇帝」を意味する「カエサル」という言葉から生まれたものです。ローマ皇帝の手が伸びていたことを示しています。イエスが誕生した頃、ローマ皇帝であったアウグストゥスが、ローマを後ろ盾としてユダヤを統治していたヘロデ王に、この地方を与えました。ヘロデはローマ皇帝から直轄地をもらい受けたので、皇帝をたたえて「カイサリア」という名前をつけるとともに、神殿をつくって、そこに皇帝アウグストゥスの像を置いて、これを神として崇めたと言われています。皇帝崇拝です。

◆ イエスが見たフィリポ・カイサリアは、皇帝崇拝という、神でない者を神とすることを強いられていた当時の政治状況が色濃く浮かび上がっていた地でした。だからこそイエスは「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言い、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけたのだと思います。それゆえに福音書記者のマルコとマタイは、その場所を曖昧にせず、「フィリポ・カイサリア」であったと特定して書き留めることが必要だと考えたのです。そのことを示すのが29節の「そこでイエスはお尋ねになった」という言葉です。この箇所は原文の意味を強調するなら「そこでイエス自らがお尋ねになった」と訳す方がよい箇所です。つまり、ここでイエスは、自ら身を乗り出すようにして「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに尋ねたということなのです。皇帝崇拝が色濃く打ち出されていたからこそ、イエスは身を乗り出すようにして「あなたがたはどうなのか」、皇帝を神とするのか、それともまことの神のもとに生きるのかと弟子たちに重ねて念を押すように問いかけたというのが今日の箇所なのです。

◆ 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスから問われて、すぐに答えたのはペトロです。彼は「あなたはメシア」ですと答えました。つまりあなたはキリストです、救い主ですと答えました。これは非常に明快で簡潔な信仰告白です。そしてこれがイエスの死後、成立していった初代教会の信仰告白の原型になりました。フィリピの信徒への手紙2:11にその告白は記されています。「イエス・キリストは主である」、原語のギリシャ語では三つの単語が並んでいます。「キュリオス・イエスース・クリストス」。初代教会の人たちは「キュリオス・イエスース・クリストス」と告白しながらさまざまな困難や迫害に耐えていったと言われます。これは間違った答えではありません。これ以上の答えはありません。ところが、今日の箇所の次の段落ですが、33節には、このペトロをサタンつまり悪魔と等しいとイエスが叱ったとあります。その理由はイエスが自らの受難と十字架の死そして復活について語ったことに対して、「そんなことがあってはならないのです」といさめた、そんな生き方は救い主の生き方ではない、キリストにふさわしくない姿だと否定したからだというのです。

◆ 十字架にかけられる救い主、それは辛さや苦しみをどう受けとめるかによって、私たちの人生は大きく分かれるのだということを示すのです。すなわち破れを作らないように生きることが大切なのではなく、破れをどのように受けとめるかが大切なのです。聖書の信仰は人間のつまずきを前提にしています。人間の心の傷を前提にしているのです。イエスの十字架の死に弟子たちはつまずきました。しかし聖書はそのつまずきを抜きにして「イエスはキリストである」という告白はあり得ないというのです。なぜならイエスが救い主である理由は、律法を守れず罪人だ、けがれていると排除された人々や、悩みを持ち苦しんでいた人たち、この世的に言えばマイナスを負って生きていると見なされる人たちと関わり、そこに自分を置き続けた日々の歩みそのものにあるからです。破れから何が見えるか、それは聖書の信仰に生きようとするときの大切なポイントの一つです。

◆ 自分の十字架を背負えとイエスは言います。それはどういうことなのでしょうか。今、人は忙しさの中で人の痛みや悲しみが分かる心を育くんだり、伝えたりすることを忘れてしまいがちです。自分の十字架を背負うということは、そういう状況にいつのまにか陥ってしまっている自分の生き方をとらえなおす、振り返ることなのではないかと思いました。自分が一緒に生きてきた人たち、自分の家族、友人あるいは仲間、そういう自分の周りにいる人たちと自分はどのように生きてきたか、ただその人たちを利用したり、こちらの側からだけ思ってきたけれど、しかし本当にその人たちの気持ちを想像し、思いやり、受けとめることをどれほどしてきたか。自分が生きてきた道を振り返り、見つめ直すことが、私たちにとって自分の十字架を背負うということの具体的な形の一つであろうと思っています。それは簡単な仕事ではありません。長年培ってきた関係を新たに作り直していく、新たに見つめ直していく、組み立て直していく、それは簡単な仕事ではありません。ですからそれはわたしたちにとって十字架なのです。簡単であったら十字架にたとえる必要などありません。重いからこそ、大変なことだからこそ、けれども大切なことだからこそ、それは私たちにとって、私にとって、自分の十字架を背負うということなのだと思います。

◆ 大変だけれど、しかし「わたしについてきたいと思うならば」自分の十字架を背負って従って来なさいとイエスは語り続けます。それは年をとったからとか、今さらそんな生き方をしたって何になるのかということではないはずなのです。まだ若くても、年をとっていても、わたしについて来たい者は自分の十字架を背負って従ってきなさいというこの語りかけは、今の私たちに語りかけられているのです。完全に十字架を担い切ることは出来ないかも知れません。しかし難しいけれど自分の小さな周りを見つめる、一緒に生きてきた人たちとのつながりを振り返り、見つめ直すことを今の自分たちに求められている大切な働きとして担うことを始めてみたいと思います。そのことで自分が何かを失ってしまう、自分だけがしんどい思いをしなければならないと思うときがあるかも知れません。しかしそうすることで命を得るのだとイエスは語っているのです。このイエスの言葉に信頼を置きながら、自分の十字架を背負うという招きの言葉に応える者でありたいと思います。


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