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2018年1月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.1.7 ルカによる福音書2:41-52 「あの人の少年時代」  望月修治

◆ イエス・キリストの少年時代、それが今日の箇所に語られています。イエスはユダヤのベツレヘムに生まれ、ナザレで育ちました。ユダヤは宗教的な習慣や伝統が強い個性をもっている国でした。41節に「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」とあります。当時ユダヤの成年男子は、年三回、都のエルサレムに上って、三大祭、春の過越祭、初夏の五旬祭、秋の仮庵祭に出ることを義務づけられていました。しかし、エルサレムから遠い町や村に住む人たちには、年三回という規定を守るのは大変だったので、年一回、特に春の季節に行われた過越祭に出ればよいとされていました。イエスの両親はこの慣習にしたがって、ナザレから100キロを超す道のりを歩いて、エルサレムに旅をしていました。

◆ 「イエスが12歳になったとき」に両親はイエスを伴って過越祭に出るためにエルサレムに向かったとあります。当時のユダヤ人の生活において、12歳というのは一つの意味をもっていました。男子が12歳になると青年に入ったと見なされ、断食することを教わり始めます。そして13歳になると、成人の宗教的義務を果たすことが求められました。信仰的な意味で一人前と認められたのです。

◆ イエスの両親のヨセフとマリアは、我が子が一人前の年齢に達したこの年、特別な思いをもってその子を連れて、エルサレムへの巡礼の旅に行ったのだと思います。帰路で問題が起こりました。エルサレムを出て丸一日の旅をし、夜になって家族が一緒になろうとしたときに、我が子がどこにもいないことに気づくのです。捜し歩いたのですが我が子は見つかりません。不安が増します。翌朝、仲間と別れて両親は、エルサレムの祭が終わって帰路をたどる巡礼者たちの流れに逆らって、我が子の所在を捜し、尋ねながらエルサレムに戻ります。46節によれば、「三日の後」とありますが、夜も寝ずに三日も捜しまわって、ようやく我が子を捜し当てます。捜し当てた時の我が子の様子はどうかと言えば、「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話しを聞いたり質問したりして」いたというのです。

◆ ようやく我が子を見つけたマリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と、まことに母親らしくイエスを叱り、言い聞かせています。それに対してイエスは次のように答えました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 この言葉は、ルカによる福音書に記録されているイエスの最初の言葉なのですが、「父の家」と訳されている箇所は、原文では「家」ではなく「仕事」あるいは「事柄」を意味する言葉が使われています。「わたしが自分の父の家にいる」というのは「わたしが父の仕事、父の働き、あるいは父の事柄の中にいる」ということになります。しかし両親にはこの時のイエスの言葉の意味が分からなかったというのです。

◆ 両親が、イエスを見つけ出したとき、イエスは神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられたのです。普通迷子になれば、子どもは、不安や怒りの表情を浮かべて落ち着きのない状態になりますが、イエスは自分が迷子になったとは思っていないかのように冷静です。
五味太郎さんが描かれた「とうさん まいご」という絵本があります。舞台がデパートです。明らかに、息子がデパートで迷子になっているのですが、息子は自分が迷子になったとは思わないのです。エスカレーターでようやく息子を見つけた父親は「おお坊主、降りたら待ってろよ。もうこれっきり会えないのかと思った」といいます。ところが息子はお父さんが迷子になったとおもっていて、「ぼくが見つけるから大丈夫」と言います。大変面白い視点だと思います。

◆ 今日の箇所で、迷子になったのはイエスではなく、母マリアと父ヨセフが迷子になった話ではな
かったのでしょうか。ポイントは、イエスが少年であったということです。この少年を、あなたはどう見ていますかと聖書は問い掛けているのです。少なくとも、両親は、「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」というマリアの言葉から察するに、少年イエスを我が息子だと捉えています。父、母の立場からすれば、イエスは息子ですから当然です。ところが、それにはある1つの視点が抜け落ちていました。今度は、イエスの言葉に注目したいと思います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。「父の家」というのは、もともとのギリシャ語で「父の内に、父のなかに」という意味があります。要するに、イエスにはもう1人、父と呼ぶ存在がいて、その父の内に自分が置かれているということを、お忘れになったのですかと問いかけるという構成になっているのです。ここで父とは神のことです。つまり、イエスは、自分がマリアとヨセフの息子であると同時に、父である神の子どもであることをお忘れになったのですかと問いかけているのです。

◆ 聖書の内容に従えば、母マリアと父ヨセフは、イエスがお腹のなかに宿ったとき、それを「神の子」だとして受け入れていったとあります。イエスが、両親に注目させたかったのは、自分が父である神の内に置かれていることです。それは、イエスが両親に向かって「わたしは神の子だ」と言って、両親を服従させるためではありません。それは51節に「それから、イエスは一緒に下って行って、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」と記されていることからも分かります。イエスの方が両親に仕えて暮らしていたのです。イエスは母と子、父と子という関係性を否定したのではありません。親子の関係を大切にしていました。しかし、私たちは自分の役割に徹し過ぎるあまり、大切なことを見失いがちです。夫であること、妻であること、父であること、母であること、子であること、教師であること、学生であること、牧師であること、信徒であること。その役割を、責任を持って担っていくことは大事です。しかし、その役割や責任に対する使命感のなかで、私たちはいつの間にかその力や地位に取り込まれて、思い上がってしまいます。あるいはその役割や責任や使命感に縛られて、いつか息切れし、どこかで無理が出て、ストレスが溜まり、ひずみが生まれ、その結果人間関係がこじれてしまうことがあります。役割を担うことは大切です。けれど、その前にあなたも神に愛されている子なのだという視点が抜け落ちてしまってはいないかと、この物語は問いかけているのです。

◆ ヨセフもマリアも毎年、過越祭の度ごとにエルサレムに巡礼の旅をするほどに神への敬虔な思いを持っていた人たちです。またマリアは、イエスが生まれた時の誕生の秘密をよく心に留めて、そのことを思いめぐらすことのできる信仰を持っていた人でもあります。そのような敬虔さをもつヨセフとマリアでしたが、神の思いを受け取り損ねてしまうのです。この両者の距離にルカは一つのメッセージを込めています。洗礼を受け、教会生活も継続して熱心に積み重ね、毎日祈ることも忘れず、聖書をよく読み、学び、また議論もする。信仰者として敬虔だと思う生活を継続する中で、私たちはいつの間にか、イエス・キリストが自分の手の中に入っていると思い込んでしまいます。イエス・キリストのことはもう手の中に入っていると確信してしまう。聖書のあの話もこの話もよく知っていると思う。けれどもイエスは、そしてイエスを通して自らの思いを示される神は、私たちの視野をはるかに越えて働くのだということです。人は自分も神に大切な存在として受けとめられている「神の子」であることを見失って、迷子になっていく時があるのだと思います。聖書はそんな時に、私たちが「神の子」に立ち返ることができるように、さまざまな物語を通して待ち合わせ場所をいくつも用意してくれているのです。イエスは、私たちが「神の子」であることを見失って迷子になっているときも、私たちを招き続けています。

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