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2016年10月2日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.10.2 フィリピの信徒への手紙1:12-30 「力の使用説明書」   望月修治    

◆ 聖書は私たちの命の使い方や生かし方の指針を示す「使用説明書」「「取扱説明書」であると言えます。この命の使用説明書、取扱説明書は揺れ動く私たち、あるいは逆に自分を守ろうとしてひとつの枠に凝り固まってしまいがちな私たちにどのような道筋を示すのでしょうか。聖書にはその具体例といえる人々の物語が多く語られています。使徒パウロもその中の一人です。譬えて言うなら、彼は命の使用説明書を読まされて、それまでの生き方、考え方、価値観が180度変えられた人だと言うことができます。一人の人間にそのようなことが起こったとすれば、それは少なからず回りの人たちの関心を集めますし、また何がその人に方向転換を起こさせたのかを知りたいとも思います。

◆ 今日の箇所は、イエス・キリストに対するパウロの思い入れの深さを語る言葉で溢れています。17節に「獄中のわたしを」と書かれていますから、この手紙をパウロは獄に捕えられていた時に書いたことが分かります。その獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている者がいるが、理由はどうであれ、とにかくキリストのことが告げ知らされているのだから、それを喜んでいると述べています。20節では「生きるにしても死ぬにしても、わたしの身によってキリストがあがめられる」ことが願いなのだと書いています。21節では「わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」、さらに23節では「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」とさえ述べています。圧倒されそうな思い入れの深さです。

◆ ではパウロがここまで生き方を変えられることになったイエス・キリストとはどういう存在だったのか。2:6-8に彼はこう記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」 ユダヤ教徒であったパウロを支えていたもの、それは八日目に割礼を受けた、ベニヤミン民族の出身だ、ヘブライ人の中のヘブライ人だ、律法に関してはフャリサイ派の一員だ、律法を守るということにおいては、非の打ち所がないという生き方をしてきたということでした。その一つ一つがパウロを支えて来ました。でもそのすべてを損失だと思うようになった、それはキリストのゆえだと言うのです。

◆ 神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になったとイエスの生き方を表現しているのですが、これは言うならばそれまで持っていたものが無くなる、失われることによって全く違った状況に置かれていくということです。そして今まで持っていたものを失う、なくすという生き方をした、そこにイエスが救い主であることの理由があると言うのです。これは大切なポイントです。パウロがイエスを救い主だと受けとめたのは、力とはこういうふうに使うものなのかということに関する思いもかけない発見をしたからだったと言えると思っています。力は誇るものではなく、共に生き合うために使うものだということです。知識も含めて、こんな事を知っているということを誇るために知識を持つのではなくて、共に生き合うためにそれを使うというのが力の使い方なのだということをパウロはイエスの十字架の出来事を通して発見させられていったのだと思います。イエスの十字架の姿、十字架の出来事は力を誇るという視点から見るかぎり愚かなものでしかありません。わたしはこれだけの力を持っている、これだけの知識を持っている、それをひけらかす。そしてわたしは大した者だと自分に言い聞かせる。そういう命の使い方、生き方をしているとき、イエスの十字架の姿は愚かなものにしか見えません。しかし共に生き合うためにという視点から、そしてそのために力をどう使うかという視点から見るときに、十字架のイエスは180度違う世界をそこに示すのだということに私たちは気づかされていくのです。

◆ パウロがもっていたもの、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所がない。この一つ一つはパウロの持ち物です。しかし人に分かち合うことは出来ません。ベニヤミン族の出身だということをそうでない人に分かつことは出来ません。律法の義については非の打ち所がないという生き方をしてきた、でもそれを誰かに分かつことが出来るかといえば、それはできません。パウロが自分の中でもってきたものです。そして彼はそれを自分の中にたくさん持っている事で、自分は神の前に立つことが出来るし、神に受け入れてもらうことが出来るし、神の救いにあずかることが出来る者だと思ってきたのです。彼は自分思っている力の大きさや広がりを誇りとしてきた人です。しかしそういうふうにただ力を持っているということは意味のないことであり、使うことが力を生かすのです。しかも自分を誇るために、自分はこれだけのことを知っていますよとひけらかすために使うのではなくて、相手を生かして一緒に生きるために力を使うことを知らなかったら、何を持っていてもそれは意味がないのだということをパウロはイエスの十字架の死の姿を通して徹底的に向き合わされたのです。だからイエスキリストを知ることのあまりの素晴らしさに、今は他の一切を損失と見ていますと彼は言い切るのです。そうでなかったらこれは単なる負け惜しみでしょう。彼はキリスト者になってそれらをなくしてしまったのですから、それは負け惜しみです。しかしパウロは負け惜しみを言っているわけではないのです。十字架にかかったイエスの生涯がもっている意味を知るということは力をいかに使うかを知るということです。どう使うことが神様の御心に適った使い方になるのかということを知ることです。それは共に生き合うために自分が持っているもの、力、知恵をどう使うかを徹底的に知るということです。パウロはそのことに気付かされたから、今までのものは一切損失だと言いきったのです。

◆ 力や知恵は強いから、あるいはたくさん持っているからいいのではありません。誰かと一緒に生き、歩むために使う、それが聖書の語る力の使用方法です。神が全能であることの中身です。神は何でもできる力を一番弱くなる、十字架にかかってイエスが亡くなる、そういう力の使い方をすることによって、わたしたちに「あなたのことを本当に大切に思っているよ」と伝えて下さった方です。パウロはそのことに気付いたのです。だから今まで持っていた一切のものは無駄だと思っていると言った人だと思うのです。自分の力を一緒に生きている人たちと共にいるためにどう使うか。神様はいつも私たちと一緒にいるために、わたしたちを生かすために自らの力をどう使うということに思いを注ぎ、ひとり一人の今を支え、共に歩んでいて下さるのです。パウロがキリスト者となった以後の歩みの一番根っこにあるのは、この神の思いに深く打たれて、自分もまたその神に繋がりたいと思ったからです。

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