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2016年3月6日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.3.6 ヨハネによる福音書12:1-8「香りのかぎ方」   望月修治         

◆ もしこれが現代であったなら、連日マスコミの取材が殺到したであろうと思われる出来事がヨハネ福音書11章に記されています。ラザロという人物が死んで墓に葬られて4日ののち、イエスによって甦らされたという出来事です。このことは間もなく人々の間に広がって行きました。人々の受けとめは2分しました。イエスを信じる者がふえました。しかし一方で、ファリサイ派の人々を中心にイエスを亡き者にしようとする動きも加速させることになりました。そのような中でイエスは公然とユダヤの人たちの間を歩くことはせず、ベタニアの地を去り、荒れ野に近いエフライムという町に行き、そこにしばらく滞在した、と11;54に記されています。そのイエスが再びベタニアに姿を現しました。過越祭の6日前のことでした。福音書記者のヨハネは、この12章からゴルゴダの丘の十字架に終わる、エルサレムでのイエスの最後の1週間を語り始めていきます。その冒頭に記されているのはベタニアの村で起こったひとつの出来事をめぐる人々の反応です

◆ イエスがベタニアを再び訪れ、ラザロとマルタとマリアの家を訪ねたところから物語は始まります。マルタとマリアは、兄弟のラザロを墓の中から蘇らせたイエスが家に訪ねてきたというので、一家をあげて歓迎の準備をしました。夕食が用意され、マルタは給仕をしていました。一方マリアは、当時の人々のほぼ1年分の収入に相当する高価で純粋なナルドの香油をもってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で拭きました。イエスの死の時が近いことを予感していたのかも知れません。一度空気にさらされた香油は、その瞬間から価値を失ってしまいます。事実、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが、その香りとともに、高価な香油はその姿を消してしまいました。

◆ このような行為をどう評価するかは、立場によって異なりますが、この香油の香りにいらだちを覚えた者がいました。数日後にはイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダです。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」ユダはそう言っていらだちをあらわにします。福音書記者のヨハネはユダのこの発言の理由を、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、金入れを預かっていたのに、その中身をごまかしていたからだと記しています。「香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施せばいいものを」という言葉は、もっともな正論であったと思えます。けれどヨハネはこのような論のたてかた、見方、物の言い方に苛立ちを覚えたのです。

◆ ナルドの香油はイエスに対するマリアの心を表しています。心の思いに形はありません。人はそれを何かの形に託して表し、伝えようとします。その心の形を、経済的な尺度、金銭的な尺度で測ろうとすることの愚かさを考えさせられます。ユダは財布を預かっていながら、中身をごまかしていたというのです。だからそれを何とか埋め合わせする手だてをずっと考えていたのではないでしょうか。ヨハネが描くユダの姿は、自分のことを優先させすぎる勝手さと、そのことによって失われていくものを示しています。ナルドの香油にユダはマリアの思いを押しはかるという心遣いは出来ず、ただお金の無駄遣いとしか見ることができなくなっていたのです。人がその心の思いを形に表したことを無駄遣いだと切って捨てる。なぜ300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか、という正論で押さえ込み、押し込めようとする、それは私たちの生活の中にもどんなに多いことかを思います。正論で押さえ込まれ、振り払われていく者の哀しみ、切なさ、やりきれなさを見過ごしてはいないでしょうか。イエスはその哀しみ、切なさを優しく支えるのです。「この人のするままにさせておきなさい」、これは文字通りには「放っておきなさい」という意味です。彼女の人生は、そのまま彼女のものとして認めればいいではないかとイエスは言うのです。

◆ 確かにマリアの行為は唐突です。何の脈絡もなく、突然自分のもっとも大切にしている高価な香油を放棄することは、全く無意味で愚かなことだと思えます。そのような無意味で無駄なことをするくらいなら、それを貧しい人々のために使えばよいではないか、というユダの言い分も当然のことではあります。無駄という言葉は、字義通りには「滅ぼす」という意味です。自分を滅ぼすようなこと、それが無駄なことです。1年間の収入に相当する高価な香油を一度に使い尽くすということは、自分を滅ぼすこと、無駄なことだとユダは見ます。私たちもそのように見ます。だから「売って、貧しい人々に施した方がよい」というユダの言い分に「その通りだ」と思う自分がいるのです。けれどもマリアはこの香油をイエスに捧げたのです。捧げるという行為は、自分を滅ぼしていく行動でもあります。私たちは物を惜しみます。心を他者に向けることを惜しみます。しかしヨハネは、惜しむのではなく使ってみる、そのとき人は自分の人生を何かに縛られた宿命とか運命といった見方ではなく、使命として受け止め、生きることができるのだというのです。

◆ そのような生き方の転換をした一人にパウロがいます。フィリピの信徒への手紙3:5-6にそのことを書いています。「わたしは生まれてから8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」・・・・パウロは誇りうる学歴、職歴、資格を持っていました。それらは当時出会う人全てが認めざるをえないものであったはずです。ところが続けて彼はこう語るのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしは全てを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。」・・・パウロは今まで人々に通用させてきたものを、イエスにも喜んで見せた。「私はベニヤミン族です。ファリサイ派です。最高の仕事をしてきました。さあ、このわたしをどうお思いになりますか」。彼が受けとめたイエスの答えはおそらくこんな感じです。「それがどうしたというのか?」。 体中の力が抜けてしまったのではないか。パウロは今までの自分が打ち砕かれ、死んだようになったのではないか。そして言ったのです。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」

◆ 今まで有利だと思っていた学歴、職歴、資格が全く通用しない世界を、イエスと出会って見出したのです。彼にとってイエスとの出会いとは、このような死、自分が滅んでいのを体験することでした。今まで通用していたことがこれからは全く通用しないことを突きつけられる体験でした。死とは、今まで大切に守っていたものが、全く通用しないと気づく体験です。自分の力で生きてきた。生きていけると思っていた。しかし、そうではなかった。そうではなく圧倒的な他者の力で生かされていることに目覚める体験です。このように、今までの世界観が完全に反転することを、パウロは「キリストの死にあずかる」という表現で語りました。苦労して築き上げてきた自分自身が、イエスとの出会いの中でポロポロと崩れ落ちていくのです。耐えられない体験です。大事にしてきたものを「それがどうしたというのか?」と神に一蹴されるのですから。イエスと出会うとは、このような死へと向き合うことに他なりません。「イエスの招きはすべて死に通ずる」(ボンヘッファー)のです。

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