SSブログ

2016年2月21日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨 2016.02.21 ヨハネによる福音書9.13-41 「見える者にみえるもの」  髙田太               

◆ 街角に生まれつき目の見えない人が、物乞いをして生きていた。その人を見た弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰かが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」とイエスに問うと、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答え、唾で土をこねてその人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。その人がイエス一行のもとを離れて、町の外れにあったシロアムの池に行き、その水で目を洗うと、癒されて見えるようになった。

◆ その人は喜びの中で、そのシロアムの池から帰って来た。驚く人々に、その人は事の顛末を語った。しかし、人々が「その癒してくれた人はどこにいるのか」と聞くと、その人は「知りません」と答えた。癒されたその人は、癒された喜びのあまり、誰が癒してくれたのか、その人がどこにいるのかは知らなかったのである。それよりはむしろ、癒しの事実と癒された喜びがその人を満たしていた。

◆ 人々は癒されたその人をファリサイ派の人々のところに連れて行った。ファリサイ派の人々は、安息日に癒しを行った人は罪人なのかという問題で意見を異にした。彼らが「お前はその癒してくれた人をどう思うのか」と問うと、その人は「あの人は預言者です」と答えた。「そんな癒しの業ができるのなら、預言者ではないでしょうか」と、状況に押し流されて口から出た曖昧な言葉であった。

◆ 18節に入り、そこまでファリサイ派と呼ばれていた人々は、ユダヤ人たちと呼ばれるようになる。ユダヤ人たちは癒しの奇跡を疑って、その人の両親を呼び出し、本当にこの人は生まれつき目が見えなかったのかと問い質した。両親は、生まれつき目が見えなかったのは確かだが、なぜ見えるようになったのかはわからないと答える。福音書はこれに続けて「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)と物語を補足している。

◆ では、誰がそんなふうな両親の本心を知ることができたのか。またなぜ両親は、「今はどこにいるのか知らない」、「たぶん預言者なんじゃないか」としか言えなかった息子を癒した人がイエスであり、しかもメシアであると知っていたのか。ここで、誰がこのヨハネによる福音書を書いたのか、という問題について考える必要があるだろう。

◆ 新約聖書には、一つの福音書、三つの手紙、そして黙示録というヨハネの名を冠した文書が5つ納められている。これら諸文書は語彙や文体、思想の類似から、同一の著者ではないが、イエスについての記憶を共有して語り継いだ一つの教会に由来するものではないかと推測されてきた。これらの中で、その著者についてそれがヨハネであると明確に語るのは黙示録だけである。対して、ヨハネの手紙二と三はその著者を「長老のわたし」としている。そして福音書はその著者が使徒ヨハネであることを仄めかそうとしている。

◆ 紀元2世紀、イエスの弟子であった長老ヨハネという人物についての伝承があった。この長老ヨハネは、十二使徒のヨハネ、また福音書の著者とは明らかに別人であるが、少なくとも二通の手紙の著者ではないかと推測されている。そして、イエスと旅を共にした弟子の記憶を語り継ぎ、書き記し、これを編集して一つの福音書を記したのは、この長老ヨハネに連なる教会であったのではないかと考えられている。

◆ 元々は洗礼者ヨハネの弟子であり、イエスと旅を共にした人物を福音書の情報源として持っており、その人物を使徒ヨハネだと推測させる仕方で福音書を編集し、そして長老ヨハネに率いられていた教会があったということである。そして、この教会に連なり、後におそらくは紀元95年頃、ドミティアヌス帝の統治下のローマ帝国で迫害に遭って、その信仰の故に地中海の監獄の島、パトモスに捕らえられていた一人のキリスト者が、この教会が保ち続けて来た記憶との連なりにおいて、自らをヨハネと名乗り、黙示録を記したと考えられる。

◆ イエスに関する確かな記憶を保っているという自覚と誇りを持った教会が生み出したヨハネによる福音書は、イエスの活動の場所や時期について、他の福音書にはない極めて具体的な情報を提供している。しかし同時にこの教会は、それが編集されたときの教会の置かれていた状況を物語に織り込んで行ったと考えられる。先の22節は、このヨハネ教会が出会ってきたユダヤ教からの迫害の状況を示しているのである。

◆ 以上を念頭に置いて、物語に戻りたい。ユダヤ人たちは、再びその人を呼び出して、「神の前で正直に答えなさい。あの者が罪ある人間だと知っているのか。」と問うた。これは、宗教裁判にも例えられる厳しい言葉である。イエスをメシアだと言い表すなら、その人はユダヤ人社会から追放されるということを意味した。しかし、ユダヤ人との問答の末、その人は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と答えた。「あなたがたも」と語ったこの人は、いつの間にかイエスの弟子になっているのである。この忌まわしい異端審問の問答の中で、この人の自己意識は練り上げられて、イエスに癒されたと自覚することは、イエスの弟子となることだと証言したのである。

◆ これを聞いたユダヤ人たちは遂にはののしった。しかしこれに対して癒された人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えた。これも驚くべき回答である。はじめは癒してくれた人がどこにいるのかわからなかったその人が、癒してくれた人はたぶん預言者ではないかと言った17節での曖昧な証言を経て、対立者の疑いの眼差しに向き合う中で、遂には癒してくれたその人が神のもとから来られた方であると、自らの足で立って力強く証言するようになっているのである。

◆ ユダヤ人たちは彼を会堂から追放した。自らの足で立つことを覚え、自らの目で見ることを得させられたが故に、その人は社会から切り離されて、全き孤独を味わうことになった。しかし、その単独者のもとにイエスが現れるのである。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった」(35節)。実にキリストは、わたしたちの深い孤独と苦しみとをつぶさに知って、ご自身の側からその姿を示して下さるのである。イエスが「あなたはわたしを信じるか」と問うと、その人は「主よ、信じます」と答え、跪いた。その人はイエスを神であると告白したのである。

◆ ではそのようにして見えるようになった者は、何を見るのか。このヨハネ教会に連なるヨハネが黙示録でこれを伝える。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」(黙示録21.1)。独り監獄の島に囚われて、そこでは決して見えないはずの希望を、彼は確かに見たのである。一方では教会の連なりの中で、その共通の記憶の中で、他方で全き孤独の中で、ヨハネはこの不屈の希望を与えられた。たとえ、社会から追放されようが、他者との接触を断たれた絶対の孤独のなかにあろうが、自分以外の誰も理解できないような苦しみの中であろうが、神は神御自身の側から希望を与えて下さる。

◆ そうした見えざる希望を、確かなものとして証言するものでありたいと思う。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。