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2015年10月18日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2015.10.18 ヘブライ人への手紙1:1-11 「イエスを見つめながら」 田名希                  

◆今回の聖書の箇所には、信仰生活を徒競走に譬えた一節が示されている。12章1—2節「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている、徒競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。」は、この時期にぴったりな、まさに運動会を想起させる秋らしい聖句である。ところでヘブライ人への手紙の著者は、何故このように語るに至ったのだろうか。このことについてまず、共に考えていきたい。

◆ヘブライ人の手紙の特徴の一つとしては、主に教理と勧告を交互に繰り返しているということが挙げられる。具体的に著者はまず、神の言葉をめぐっての教理と勧告を述べ、次に信仰告白を彷彿させるような教理、中心に有名な「大祭司キリスト論」を据えた上での、勧告、そしてこのことを受けて「忍耐」を語り、勧告をし、結論へと導いていく。このことからも、前半に教理を述べ、後半を勧告でまとめるパウロの手法とは異なる。しかし、著者はパウロに勝るとも劣らない、あるいはパウロとはまた違った豊かな語彙、そして文法的なテクニックを操る人物であったことを知ることができる。

◆この魅力的な著者は、ステファノやフィリポたちの立場を継ぐ、ヘレニストであったったようだが、残念ながら、その人物は明確にはなっていない。また、この手紙の受け手も、定かではないが、64年ローマ帝国の皇帝ネロによる迫害を経験し、次の新たなる迫害の足音から、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られない時代であったこと、また使徒教父クレメンス1世がコリントの教会の仲違いを聴いて、96年頃、送った手紙「クレメンスの手紙一」でこのヘブライ人の手紙が引用されていることから一世紀末のローマが有力ではないかと推測される。

◆このような時代背景を考えたとき、この手紙の中で教理と勧告とを繰り返す、著者の思いを僅かではあるが、感じることができるのではないだろうか。特に先述した12章2—3節と本日の箇所より先の部分も含むが、そのすぐ後に続く、12章3—4節「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨てて、恥もいとわないで十字架を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」という厳しい言葉から、著者が語ろうとしていることの真意を私たちは更に深く探ってみたいと思う。

◆そこで前後したが、11章との繋がりを確認しておきたい。まず、1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と語った上で、天地創造から始まる先人の、言い換えれば旧約時代の人物の信仰について綴っている。そして、32節にあるような流れへ導いていくのだ。ギデオン、バラク、サムソン、エフタは士師で、ダビデはイスラエルの代表的な王、サムエルは、預言者の代表として著者は彼らの名前を挙げ、そして、彼らをはじめとして、多くの士師、王、預言者が信仰によって、行ったものを列挙している。

◆しかし、ここで重要なのは、彼らが行ったことではなく、39節にあるように旧約時代の人々は、信仰をみとめられながらも神の約束つまり、「救い」を手に入れることはできなかったということだ。この救いは、今日においても未だ完成には至っていないが、それまで秘められていた神のご計画が主イエスによって示されたので、新約以降の時代に生きる者にとっては、キリストの福音の故に完全な状況つまり、救いに至る状況にあるのだと語っている。またこのように語ることで、著者は旧約の時代に生きた先人と今、生きる私たちを同じ信仰に属するものという教会観を見ることができる。そして、この信仰の祖先たちは、その信仰を証明する証人たちであることを12章冒頭で語っている。その上で12章1−2節の今回、繰り返し語っている聖句へと結びついていくのだ。

◆この手紙の書かれた当時、恐らく激しい迫害の中にあって、キリスト教から離れようとするものが多く現れたのだろう。それを著者は、信仰の先人たちが為したこと、特に11章36節以下にあるような迫害や苦悩を覚えながら、12章4節のように厳しい言葉を投げかけることは、同時に迫害に負けて信仰を捨てることがないようにという激励の言葉でもある。

◆現在、私たち日本のキリスト者は、信教の自由に守られている。従って、激しい迫害や弾圧、差別に苦しむそのような状況は、あまり身近なものとしては感じることはない。故にこの「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」という一言は、非常に心に突き刺さるものがある。しかし、この「罪」と戦うという言葉は、何も迫害の状況下だけでいわれるべき言葉ではない。なぜなら「自分に定められている、徒競走」というのは、信仰を徒競走に譬えること、即ち、それぞれの人の人生を徒競走に譬えているという見方も可能だからだ。

◆みなさんは、この徒競走を走り抜いた御自分を想像したことがあるだろうか。私は多くのことをポーカーフェイスで乗り切るタイプだ。故にガッツポーズなどして、余裕の表情で走り抜けたいと思う。しかし、既に分かっていることは、走り続けるということだけで、並大抵のことではないと言うことである。

◆私自身4回生の時から大学院の1回生にかけて、深い悲しみを負い、伝道者の道を志すのは辞めようと思ったことがあった。愛する者の最後を共に走ることができなかった自分に他者と神とに仕える伝道者になるのは不可能だと思ったからだ。愛する者を失った、側にいることすらできなかった私はイエスを知らないと言って、見捨てて逃げたペテロのようだと思った。

◆そのような私の気持ちを救い上げてくれたのは、キリストの福音そのものであった。背負いきれない重荷を主が共に担ってくださる。悲しみの道を共に歩んでくださる。なにより、悲しみもう憂いも、そして死にさえ打ち勝って、復活の栄光を示してくださった、そのことに尽きるのである。

◆わたしたちは、日々の歩みの中で、重荷を負い、後ろめたさを覚え、それでも自力ではどうすることもできないことがある。しかし、その重荷も絡みつく罪も全てを捨てて、ただ主イエスを見つめながら歩む、その道が私たちには示されていることを毎週、ここに集うことで私たちは知ることができるのではないだろうか。

◆またその徒競走を走り抜けるとき、歓声を浴びて、ガッツポーズをしながらテープを切るようなかっこいい姿とはほど遠いかもしれない。よろめきながら、息をつぐことさえままならない、必死に走り抜けて、倒れ込むようなゴールかもしれない。しかし、どのようなゴールテープの切り方であっても、わたしたちは、ゴールにおられる主イエスを見つめながら、主の御腕の中に飛び込んでいきたいと思うのだ。

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