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2015年9月27日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2105.9.27   ヤコブの手紙2:1-9「あえて選ぶ」                   

◆ 聖書は「隣人を愛して生きること」を繰り返し促しています。ヤコブの手紙2章8節にも「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』というもっとも尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」と記されています。つまり聖書に語られた福音を自らの指針として生きるということは、「隣人を自分のように愛する」という、この一事を実践することだというのです。しかしそう迫られると、私たちにとってイエスの福音を指針として生きることは、とてもハードルが高くなってしまいます。人ははたして他人を家族と同じように愛せるものでしょうか。聖書は、その高いハードルを越えて行くことが信仰なのだから是が非でも頑張れというのでしょうか。「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉をどう受けとめたらいいのか考えて見たいと思います。

◆ 2章のはじめには「人を分け隔てしてはならない」という小見出しがつけられています。この言葉は1節に出てきます。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」これは手紙の著者が読者に提示した大原則です。そしてそのことを人々に具体的に思い描いて貰うために、ひとつの事例を挙げています。もし教会に「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚らしい服装の貧しい人」が入ってきたとしたら、あなたはどのように対応しますかと問いかけます。この両者に対して、家の集会に集まっていた人たちが全く異なる対応をすることが問われています。立派な身なりの人には特別目を留めて「さあ、こちらへどうぞ」と席に案内するけれど、貧しい人には立ったままでいても声を掛けないままか、あるいは声を掛けても「わたしの足元に座っていなさい」という扱いをするだけだとしたら、それは重大な問題だというのです。教会の集会に集まってきた人に対して、金持ちか貧しい人かで、このように全く異なる対応をすることは、二つのことを意味していると手紙の著者は指摘します。4節です。一つは「自分たちの中で差別をしているのだ」ということ、もう一つは「誤った考えに基づいて判断を下したことになる」ということです。金持ちも貧しい者も何れも神に招かれている者であるのに、なぜ教会の集会で、両者を分け隔てするということが起こるのかとこの手紙は問うのです。

◆ 加えてこの手紙は、教会での分け隔てを「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めと結びつけています。8節では「最も尊い律法」と表現されていますが、この「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めと共に、イエスが聖書の中で最も重要なこととして語ったものです。人を分け隔てすることは、この戒めに背くことだというのです。これはおそらくこの手紙の読者である人たちが、いや自分たちはちゃんと「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを重んじ、実行していると言っているということがあったからだと思われます。このことについて、10節で「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となるからです」と述べられています。人を分け隔てすることは戒めの中の一つを守らないということに留まるのではなく、根本的な土台の部分が崩れていくことなのです。何故そうなるのか、それは5節「神は貧しい者を選び、信仰に富ませ、神の国を受け継ぐ者となさった」からであり、それゆえに人が分け隔てするのは神の意志を軽んじることだということになるからです。

◆ キリスト者とそうではない人たちとの違いはどこにあるのか、と問われます。例えばボランティア活動や奉仕活動、いろいろなNGOを立ち上げて社会の必要に対応すべく活動する、そういう活動においてキリスト者ではない人たちの方がはるかにたくさんの、また大きな働きをしておられることは枚挙にいとまがありません。それでは証しにならないから、キリスト者はもっと頑張って、そうした働きを越えるような活動をしなければならない。そうしなかったらキリスト者である意味を示すことができないということなのでしょうか。そうであるならキリスト者であることは随分としんどいことです。両者の違いはどこにあるのか。今日の箇所はその問いへの答えを用意しています。1節です。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」 「主イエス・キリストを信じ」て生きる否か、そこがポイントです。神はイエスを十字架に架けてまで、人間を招いて下さっている。的を外れた生き方をし続ける人間を、今のあなたのままでいいからと赦し迎え、本来あるべき道に導くために、神はイエスの十字架の出来事を起こされた。十字架で死んだイエスの死の意味をそのように受けとめることが「主イエスを信じる」ということの中身です。そうすることで生み出され、育まれる生き方があります。「そのままでいい」「今のあなたのままでいい」という受け入れは人を深く癒すでしょうし、その癒しの中から隣人に向かう生き方が引き出されてくるのではないか。聖書が語る神とはどのような神なのか。神の本質、神の働き根本な何なのか。それは「愛」だと聖書は繰り返し語っています。神の本質として語られる愛は人を他者に向けて押し出す力です。

◆ 阿川佐和子さんが「叱る力」という本の中で、ある出版社のベテラン女性編集者に聞いた話を紹介しておられます。そのベテラン編集者は仕事ができる人です。長年、一生懸命に仕事をして成果もあげ、作家にも重用され、社内の評価も高い人でした。しかし本人としてみれば、どうも上司と仲良くなることが難しいとつねづね悩みを抱えていました。上司のほとんどは男性です。そんなとき、若い女性編集者が新人として同じ職場に配属されてきました。この新人が、驚いたことに、瞬く間に自分が付合いにくいと思っていた上司たちと楽しそうに会話をしていました。どうしてあの子はかくもたやすく上司の面々の心をつかんでしまうのか。格別何か思い当たる振る舞いをしているふうには見えない。ある日ベテラン女性編集者は、新人の彼女を呼んで聞いてみることにしました。「あなたはどうしてそんなに上司たちとなかよくできるわけ?」すると新人の彼女は「簡単ですよ。誉めればいいんです。何でもいいんです。ネクタイでも靴でも時計でも原稿でも。いいネクタイですねとか、先輩の書いた原稿、面白かったですよとか」そんなふうに誉めればいんですよ、と新人の彼女は言いました。ベテランの女性編集者はそんなことでいいのかと唖然としたというのです。

◆ 誉めればいい、そんなことでいいのかどうかは分かりませんが、確かに人は、ささやかな誉め言葉でふっと自分への視点が変わり、その結果他者への視点も変えられることがあるのではないか。褒め言葉もさまざまです。無理に探すとお世辞臭くなるし、「嘘っぽいな」と自分自身が内心思っていると、どこかにわざとらしさが表れてしまします。できるだけさりげなく、相手のことを観察して、何か一つでも「ここはいいな」という箇所が見つかったら、それを褒め言葉に変換する。そのことをベテランの女性編集者は若い新人の彼女から気づかされたというのです。

◆ 聖書に語られている神は、私たちひとりひとりの「ここはいいな」と思える所を一生懸命探して、「そこいいじゃないの」と言って下さって、そして私たちに自分が大切な存在なのだと気づかせ、その気づきからさらに他者に向かってごらんなさいというふうに促すのではないか。それが「隣人を自分のようにあいしなさい」ということの基本姿勢なのです。聖書の神は私たちの粗を見つけて「お前は何だ」と怒るという関わり方ではなくて、ここはいいなというところを見つけて、そこからその人に働きかける。神は裁きをイエスに委ねて、人にはそれぞれの「いいな」を見つけて生かそうとして下さる。そのような関わり方をすることを神はあえて選んで、私たちに働きかける。それがイエスの十字架の出来事だったのではないかと思うのです。

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