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2015年8月23日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.8.23  ローマの信徒への手紙14:1-9 「人のこだわり・神のこだわり」      

◆ 「信仰が強い」あるいは「信仰が弱い」という言葉が教会で交わされることがあります。もしそのような言い方にさほど違和感を感じないとするならば、それは信仰には強い信仰と弱い信仰があると漠然と思っているからです。では信仰の強さ、弱さとはどういうことでしょうか。はたして「強い・弱い」を決める基準や目安があるのでしょうか。パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」と書いています。ということは、「信仰の強い人」と呼びうる人が一方にいることになります。ローマの教会で「信仰の弱い人」とパウロが呼んだのはどのような人たちだったのでしょうか。
◆ 彼は今日の箇所で二つの事柄をめぐっての対立、いさかいを取り上げています。ひとつは食べ物をめぐる問題です。何を食べてもいいのだという人と、野菜だけを食べる人との間に対立があり、互いに相手を軽んじたり裁いたりしているというのです。そしてもうひとつは、一年中どの日も同じだと考える人と、いや特別な日があって、その日は他の日より大切にしなければならないと考える人との間の対立です。パウロの言う「信仰の弱い人」「信仰の強い人」というのは、力が強いとか弱いとか、走るのが早いとか遅いとか、そういった次元の強さ、弱さではなく、信仰理解の違い、立場の違いによって区分けされた二つのグループをさして、そう呼んだということです。
◆ 「信仰の弱い人」と呼ばれている人たちというのは、肉は食べずに野菜だけ食べる人たちであり、特定の日を重んじる人たちでした。一方「信仰の強い人」と呼ばれた人たちというのは、何を食べても差し支えない、どの日も同じだと考える人たちです。そして双方とも、宗教上の理由からそう考えていました。6節に「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と記されているとおりです。この両者の関係は、いわゆる「弱い者いじめ」と言われるように、強い人が弱い人を一方的に押さえ込んだり、嫌がらせをするということではなく、互いに反目し、それぞれの立場の正しさを主張し、ぶつけ合っていたのです。
◆ このローマの教会の人たちの対立を、何とくだらないことでと、あっさり片付けてしまえるのだろうかと考えます。私たちも端から見れば何とくだらないことでと思われてしまうことに、案外こだわって、人と対立したり、避難し合ったり、苛立ったり、怒ったりしてしまっていることが少なくないのではないか。何かあるひとつのことにこだわると、そこからなかなか抜け出たり、離れたりすることができません。もっと自由に受けとめ、自由に考えたらいいことであるはずのものが、こだわることで一人歩きを始め、人を縛ったり枠にはめたりすることが起こります。
◆ パウロはこのような問題を考えるにあたって、どこに視点を向けるべきかを記しています。野菜だけ食べる人と何を食べてもいいのだと考える人、特定の日を重んずる人とどの日も同じだと考える人、この両者の立場は全く正反対であるように思われるのですが、しかしその両者とも、なぜそうするのかと言えば「主のために」しているのだとパウロは語ります。そしていずれの立場に立つ人たちも、神に感謝していると述べています。その点で、いちばん基本的な点で一致しているではないかというのです。そしてそのことをぐっと突き詰めて、7〜8節の言葉が出て来ます。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」「わたしたちは主のものです」とは、人間が人間の主人になるのではないということです。4節で「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」と問いかけているのはその点をさしています。ここでいわれている「召し使い」とは、特に家の中の仕事に携わり、家族の者とも非常に親しく、家族同様に暮らしている人のことです。この主人と召使いの関係に譬えながら、他人の召使いのことになぜ口を出すのかと問いかけ、「いやそのように言われると答えようがない」ことを自覚させようとします。そして人を裁くというとき、その相手だけではなく、その相手の主人をも裁くということになるのだというのです。主人とはイエス・キリストに他なりませんが、立場の違いを理由に人を裁くことは、その人を受け入れているイエスを実は裁くことになるのだというのです。「召使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。」それを人は、自分で倒れる倒れないを決めてしまう、これは光でこれは闇だと決めつけて光の中にいなければとダメだと思い込む。そして、これはよくてこれはダメだと結論づけてしまう。それが人のこだわり方です。
◆ ノートルダム清心学園理事長で、カトリックのシスターである渡辺和子さんが「面倒だから、しよう」の本の中で「歳を重ねた自分を見つめよう」という一文を書いておられます。その中で渡辺さんは86歳を過ぎた自分に語りかけられる言葉には、その年齢に対するある意味での枠付けが伴っていることをさり気なく書いておられます。例えば講演の依頼を受けて会場に行くと、出迎えの人が「お一人で、お伴もなしでいらしたのですか」と感心したように言う。あるいは会食の席で、せっかくの料理だからと努力して食べると、「シスターは、お歳に似合わず健啖家ですね」と言われる。86歳なら出かける時には同伴者と一緒、食事の量はもう少なめ、という見方がスタンダードになります。その自分の年齢と向き合いながら、次にように書いておられます。「今、いただいている仕事が、いつまでできるかわかりません。若い時には、他人のためにできていたことが、今は、していただく立場になっていること、三十分でできていたことが一時間かかるなど、自分のふがいなさを感じています。86年も働いてくれた目、耳、その他の痛んだ部品に、『今までありがとう』といいこそすれ、責めない自分でありたいと、しみじみ思います。老いてなおできること、それは、ふがいない自分を、あるがままに受け入れ、機嫌よく感謝を忘れずに生きること。忙しかった頃、おろそかにしがちだった神との交わりを深めてゆくことでありたいと願っています。」
◆ 渡辺和子さんの言葉を読みながら、若き日には若き日の使命と意味があり、老いた日には老いた日の使命と意味があるのだということを思いました。そしてそのことをこそ主にあって知るということに思いが巡りました。私たちが味わうさまざまな体験、それを人は色分けして、よいこと悪いこと、益になること無益なこと、意味のあること無駄なこと、と価値判断を下し、人の生き方を評価するというだけでなく、自分への評価も下し、ときには自分を裁いてしまうこともあります。けれどそのすべての出来事、すべての体験は主のものだとパウロは語ります。そしてキリストが死に、そして生きたのは、そのいずれの状態にいる時も、その人の主、救い主となられるためだったとパウロは語ります。人生のいずれの時も、いずれの体験も生きることの意味を見出し、味わうための大事な時間なのです。スコットランドのアイオナ修道院の聖堂の入り口に「This is the first day of the rest of your life.」という言葉が刻まれています。「今日という日は、あなたに残された人生の第1日目である。」私たちが歩む今日という日は「主にあって生かされて歩む、信仰の歩みにおける第1日目」ということです。そのように日々を歩むことを一人一人に促す、それが神のこだわり方なのです。

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