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2015年5月3日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.5.3 ヨハネによる福音書15:12-17 「選ばれし友よ」

◆ 「わたしがあなたがたを愛したように」とイエスは弟子たちとの最後の食事の席で語りかけました。聖書が語るイエスは、わたしたちを下から支え、横にあって痛みを共感し、共有します。そのイエスの生き方を踏まえた上で、ヨハネ福音書は12:45で「わたしを見る者は、わたしを遣わされて方をみるのである」とイエスに語らせます。すなわち神もわたしたちを下から支えて下さるのであり、そばにいて痛みを共感し、共有して下さるのだということです。神は、憐れみや恵みを上から注ぐのではなく、いちばん小さくされている人たちと共に働くのだというのが聖書のメッセージです。

◆ その神は私たちに対してどのように生きることを求めているのか。聖書には旧約が39巻、新約が27巻あり、神の掟や教えは数えきれぬほど無数にあるような気がします。どれを、何から実行すればいいのか、聖書を生真面目に読もうとすれなするほど、途方にくれてしまうことになります。しかしパウロは、それをたった一つの掟に要約しています。ローマの信徒への手紙13:8-10です。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」「隣人を自分のように愛しなさい」・・・聖書に従って生きるとは、要するに、この一事を実践することであるというのです。

◆ このことをヨハネ福音書は「隣人を自分のように」という言い回しを用いないで、「互いに愛し合いなさい」という表現で語っています。15:12「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そして15:17「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 聖書全体に書かれていること、そこにしるされているたくさんの掟を絞り込んで絞り込んで最後に残るもの、すなわち聖書の中でいちばん大事なこと、それさえ守れば神の教え全体を守ったことになる、そこまで言ってくれているのが「互いに愛し合いなさい」です。少し噛み砕いて言えば「寄り添ってくれる者を必要としている人の隣人にあなたがなって、自分自身を大切にするようにその人を大切にする」あるいは「大切にしたい」「大切にしよう」と思って生きる、それこそがいちばん大事なことなのだというのです。そしてそのように生きる、生きてみようと思い定めるとき、その人をイエスは「友と呼ぶ」のだというのです。

◆ PHP研究所が発刊している「PHP」という冊子の最新号5月号のコラムに玉木文憲(たまきふみのり)さんという65歳の会社経営をしている人の一文が載っていました。「一緒にがんばってみませんか」というタイトルがつけられています。
 「がんばれよ!」 困っている人の顔を見ると、一声かけたくなるものだ。私もこれまでの人生、励ましの言葉をたくさんもらってきた。親を亡くしたとき、仕事で行き詰まったとき、貧乏生活・・・。苦しいことがあったときには、「がんばれ」のひと言で自分を奮い立たせ、その度に乗り越えて来た。しかし50歳のときに「がんばれ」のひと言は、私にとって今までとは真逆の意味になっていた。ある日突然、私の体を病魔が襲ったのだ。副腎白質ジストロフィーという難病で、両下肢が麻痺し、車椅子の生活を余儀なくされた。あまりのことに呆然とするしかなかった。「大変だけど、がんばってね」多くの方から励ましの言葉をもらった。今までの私なら、そのひと言で発奮していたことだろう。しかし今回ばかりは、そう言われてもどうしてもがんばれなかった。
 日常生活を普通に送れる健常者の方に言われると「あなたはがんばって、わたしは知らないけど」と突き放されたような感じがするのだ。次第に励まされること自体が苦痛になった。自分でも嫌になるほど、私はすさんでいった。心の状態に比例するかのように病状も進行し、ついには寝たきりの生活になってしまった。
 ある日のこと、障がい者団体の方が家に訪ねて来た。私より10歳以上年上の男性で、彼も車椅子に乗っている。何をしにきたのだろう、どうせ励ましにきたのだろうと構えていると、彼は穏やかな口調でこう言うのだ。「なんだか近頃ずいぶん辛いようだね」
いままで励ましの言葉はたくさんもらってきたが、彼のように私の心情に寄り添ってくれた人間は初めてだったので驚いた。温かな言葉だった。すさんでいた私の心は、ぱっと明るくなった。気がつくと、抱え込んでいた苦しさのたけを、彼に思い切りぶちまけた。彼は目を細め、穏やかな笑顔で私の愚痴にひとつひとつ相槌を打ってくれる。「毎日が大変なんだね。よくわかるよ」 同じ車椅子生活という境遇のためだろうか。彼に対して素直になれた。ひと通り愚痴を吐き出し、少し落ち着いてきたころ、彼から問いかけがあった。「ところで、何かいいことは最近なかったかな」 いいこと・・・・。私は考え込んでしまった。こんな自分に、いいことがあるはずがない。ないに決まっている。
「どんなに小さなことでもいいんだよ」 いや、待てよ。最近自分のことしか頭になく、身の回りでなにがおこっているのかさえ見ようとしていなかった。彼の問いかけから、自分の視野がいかに狭くなっていたかに気づかされた。「そうだな・・・・」長い間考え込んだわたしは、最近5年生になる息子が学校から帰って遊びに出る前に、洗濯物を取り込み、たたんでくれる話をしてみた。その時にも、彼は温かく相槌を打ってくれた。話すうちに、久しく忘れていたこどもを思う気持ちが蘇ってくるのが分かった。「すごくいい話じゃないか。そんないいことが見えている玉木さんは、絶対大丈夫だ。勝てるよ、きっと。病気に勝てる。だから僕と一緒にがんばってみませんか」 「一緒に」という言葉の響きが、私にはとても新鮮だった。彼は、がんばれないわたしをすべて肯定してくれたのだ。「がんばれよ」と突き放すのではなく、私と同じ車椅子に乗った目線で「一緒にがんばってみませんか」と寄り添ってくれた。「一緒に」という言葉の響きが、私の中で大きく広がっていった。
 「玉木さんに会えてよかった。ありがとう」そういって帰った彼の後ろ姿に、私は何度もお礼を言った。こんなに晴れやかな気分になったのは、本当に久しぶりだった。一時は寝たきりだった体も回復し、今では車椅子で旅行にもいけるようになった。彼との出会いが、私を変えてくれたのだ。その後、この障がい者団体のメンバーの一人として、私も一緒に活動させてもらうことになった。彼のように、苦しむ方の手助けができればと願っている。一人一人の思いに寄り添う。彼が私に示してくれた姿勢をいつも目標にしている。

◆ 「あなたがたを友と呼ぶ」と語りかけるイエスはこういっています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」 イエスがわたしたちのところを訪れて一人一人を友とするというのです。イエスが傍に来て、傍らに座って「一緒にやってみないか」「わたしも一緒にやってみるから」と言葉をかけ、わたしたちが立ち止まっているところから、また1歩を踏み出していけるように寄り添う。それが「わたしがあなたがたを愛したように」とイエスが語っているあり方の中身なのだと思うのです。そのような生き方をイエスがまずするから、あなたもそのように歩んでみないか、その呼びかけに応えてみたいと思うのです。

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