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2015年3月22日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2015.3.22   ルカによる福音書20:9-19 「裏切りの報酬」             

◆ 1月31日に、西ドイツ大統領、そして東西両ドイツが統一されたときには初代大統領となったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが亡くなりました。1985年5月8日、当時の西ドイツ連邦議会で行った大統領演説「荒れ野の40年」で、こう語りました。「問題は過去を克服することではありません。さようなことは出来るわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。」この演説は過去の歴史に対して、いかなる姿勢をもつべきなのかを、自らに問い、人々に問い。歴史に対する姿勢を共有することを訴えて、世界の人々の深い共感を呼びました。

◆ 人は過去を語らないのではありません。いろいろな時に過去の思い出語りに花が咲くことは、わたしたちの日常として体験することです。ただ過去を語るとき、人は現在の自分に都合がいいように語るのです。自分に不都合が起こらないように、ときには過去をアレンジし、ときには省略し、不利と思えることは過去の歴史の谷間に押し込んで、自分の立場の正統化をはかります。「過去に目を閉じる」とは、過去を語らないというのではなく、都合の悪い事実、本来ならその罪を問われなければならないことを、過去という時の谷間に押し込めて葬り去ろうとすることです。

◆ キリスト者は、2000年前ユダヤに生きたナザレのイエス、底辺に生きる人たちの傍らに立ち、語りかけ、重荷を一緒に担い、歩み、そして十字架に架けられたその生涯に目を閉じない。イエスの生涯は神の深い意志、人を救おうとする御心を示すものであったことを受け止め、向き合い、そして今を見つめ歩む。2000年前という過去にユダヤで生きたイエス、そのイエスを通して自らの意志を現した神が、今の自分を、今の自分たちを生かしている。そのことを基にすえて歩む、それがキリスト者として生きることの原点です。ナザレのイエスの生涯は救い主としての生涯、キリストとしての生涯であったということに目を閉じたら、今を生きる上での基となることを見据えずに生きることになるのだということをキリスト者は自らの人生の中で証しするのです。

◆ 17節に「隅の親石」という表現が出て来ます。イエスはこの言葉で生きることの原点にあるものを表現したのではないかと思います。そしてそれが見失われていく有様を、収穫期を迎えたぶどう園の農夫たちの姿に譬えて語っています。私たちが見失ってはいけないものは何なのか。もう少し具体的に言えば、聖書の神の働き方、わたしたちに神はどのように関わって下さるのか、そのことを「ぶどう園と農夫」のたとえは語っているのだと思っています。

◆ 譬え話は次のように始まっています。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。」この書き出しはユダヤの人々と神との関係を的確に表現しています。一つは、ぶどう園は無償で貸し与えられのではなくて、賃貸しされたものであるということです。したがって農夫は主人の意向に沿って適切にぶどう園を管理し、契約に基づいて収穫の中から一定の割合で主人に納める義務を負っているということを意味します。加えて主人がぶどう園を貸したまま長い間旅に出ていたということは、主人が農夫たちを信頼して管理と収穫を委ねていたことを示しています。つまり主人は農夫たちに忠実であることを求め、期待していたということです。

◆ 収穫の時が来て、農夫たちの忠実さがどうであるのかが明らかになります。農夫たちが見せたのは忠実さではなく反抗でした。収穫を納めさせるために主人が送り込んだ僕を農夫たちはすべて追い返します。三人の僕を送ったにもかかわらず、農夫から何れも拒絶されてしまったぶどう園の主人は、「どうしようか」と考えます。そして出された結論は驚くべきものでした。自分の愛する息子をこの農夫たちのもとに遣わそうというのです。「愛する息子」とはイエスのことを指しています。ここに、この譬え話の隠されたキーワードが出てきます。13節の「たぶん」という言葉です。「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」とあります。主人は愛する息子を送るにあたって「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と思ったというのです。「たぶん」ということは確実ではないということです。愛する息子を送ったら確実に敬ってくれるという保証は主人にもないということです。敬ってくれるという期待はあっても確信はなかったのです。状況からすれば主人が送った僕を三人も手荒く扱い追い返した農夫たちが、主人の息子だからといって態度を変え、悔い改めて受け入れるという可能性はかなり低いと判断せざるを得ない場面です。そういう危険度の高い状況の中に「たぶん」という主人の側の期待にのみ根拠を置いて息子を送ったのです。しかし主人の期待は跳ね返されてしまいました。息子を見た農夫たちは、跡取りを殺してしまえば財産は自分たちのものになると考え、息子をぶどう園の外に放り出した上で、殺してしまうのです。愛する息子の派遣は農夫たちが悔い改めてくれることへの主人の期待の強さ、願いの強さを表しています。しかし主人の期待は完全に裏切られてしまいます。ここまでが譬え話です。

◆ イエスはここで譬えを終了させて、次のように結論づけます。「ぶどう園の主人は、戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」このときイエスは前にいた人々を「見つめて言われた」(17節)と記されています。ここにもうひとつ目立たないキーワードが出てきます。「見つめる」(エムブレポー)です。この「見つめる」は22:61でも使われています。ペトロがイエスのことを三度知らないと言ったとき、鶏が鳴いた。そしてイエスは「振り向いてペトロを見つめられた」とあります。イエスは見つめるのです。イエスとの関係を否定していく者を見つめるのです。イエスが人を見つめるとき、その視線に宿って行くのは切り捨てではありません。そこに宿るのは受け入れであり、赦しです。どのような状況にあろうとも一緒にいるという救いへの招きです。

◆ 「ぶどう園と農夫」の譬えは息子の殺害に対する神の裁きを最終的な結末とはしていません。むしろ、息子が殺害されたことから、驚くべき救いの働きが始まっていくのです。そのことをイエスは詩編118:22の言葉を引用して提示していくのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」・・・・隅の親石は建物が建ち上がれば見えなくなってしまうけれども、しかしそれが外されれば建物全体が崩れてしまうその要の位置に置かれたものです。そのようなあり方で、そのような位置にいて貴方を支える、それが神の救いの働きなのだとイエスは言うのです。

◆「見つめる」という言葉はこの驚くべき救いの働きへと私たちの視線を向けさせるべく置かれたキーワード、言うならば「隅の親石」です。しかしこの神がこの道を選ぶのは、人が悔い改めてくれる、変わってくれることの確かな保証があるからではありません。あるのは「そうあってほしい」という強い期待であり、願いだけです。それを示すのが「たぶん」です。「たぶん敬ってくれるだろう」という言葉です。人は変わるかも知れない、しかし変わらないかも知れない。その答えは見えていない。それでも変わるかも知れないというその一点の可能性に神は思いを絞って、「愛する息子」を送るというのです。イエスの十字架の出来事は、この神の思いを伝え続けています。

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