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2014年12月21日(日)の説教要旨 [説教要旨]

先週の説教要旨 2014.12.21  ヨハネによる福音書1:1-14「目覚めよ、高く歌え」

◆ 「光は暗闇の中で輝いている」この言葉を紀元1世紀末、ヨハネの教会の人々はどのように聞いたのだろうと思いました。当時、教会の人々は本当につらく厳しい状況に置かれていました。紀元66年〜70年まで続いたローマ帝国に対するユダヤの戦い、ユダヤ戦争と呼ばれる戦いはローマの勝利で幕を下ろすのですが、この戦争によってユダヤは荒れ果てました。都エルサレムは神殿も含めて壊滅的な打撃を受けました。それまで神殿を中心に行われてきたユダヤの政治、宗教、経済体制は崩れ去り、ユダヤの人々は存亡の危機に直面します。危機は人間を保守化します。神殿に代わる基盤、拠り所を人々は律法に求めました。律法こそ神の意志そのものであると考え、その掟に忠実に生きることで、神の民としての自分たちの信仰、伝統を守ろうとしたのです。そのため、異なった考えや教え、律法の解釈の幅に対する寛容度を失って行きました。そして彼らが正統とみなさない立場や考えを「異端」とし排除するという動きが顕在化していきました。その標的とされたのはキリスト教です。ユダヤ戦争以前は、ユダヤ教キリスト派といった位置に置かれて、かなり変わったグループだとは見なされていましたが、ユダヤ教の会堂から追い出されるまでには至っていなかったのに、神殿の崩壊という出来事を節目とするように、キリスト教は同胞のユダヤ教の人々から激しい弾圧を受けることになりました。その現実をヨハネ福音書は暗闇と呼びました。

◆ 人間は闇を持つ。辛い思い、苦しみの体験、悲しみに沈み込んでしまう時を人は持ちます。ヨハネ福音書は人間が生きているこの世は暗闇なのだと語りました。「世」とはギリシア語で「コスモス」です。ギリシア人は世を、コスモスの花のように調和のとれた美しいものだと考えました。しかし聖書は世をそのようには見ていません。悲惨さや嘆きや苦しみがたくさん癒されないままにあり続けている世界だと見なしました。福音書記者のヨハネはそれゆえに「世」を「暗闇」と呼んだのです。

◆ 昨年2013年8月28日にワシントンで多くの人々が集まり行進が行われました。50年前の同じ日に、人種差別の撤廃を求めてマーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとするワシントン大行進が行われました。その日を記念して、同じ日に、50年前と同じ道を、雨の中、多くの人が再び行進しました。キング牧師たちの運動によって、1964年、公民権法が成立し、キング牧師はノーベル平和賞を受賞します。当時、1960年代のアメリカ社会の状況をキング牧師は「真夜中」と表現しました。1960年に始まったベトナム戦争は泥沼化していました。社会的秩序、道徳的秩序、人種差別、経済的収奪、などそのすべてにおいて「今は真夜中だ」とキング牧師は言い、「真夜中は、信仰深くしていることが難しい困惑の時間である」と語っています。その真夜中において、暗闇の只中で、教会が語らねばならないのは、真夜中は長くは続かないという言葉だと礼拝で語りかけました。

◆ ヨハネ福音書は、イエスがその暗闇を照らし出す光だと告げます。「光は暗闇の中で輝く」、この表現は、イエスという光は、暗闇を全部照らして闇を消してしまうということではないことを示します。その意味は何か。なぜ「暗闇を消し去る」ではなく「暗闇を照らし出す」なのか。もし暗闇を消し去ることが問題解決になるとするならば、暗闇は全くマイナスのことであり、そのような状態に陥ってしまった日々は全く無駄な時間であったということになります。しかし人が歩んで来た日々の中でなかった方がよかった日など一日たりともない。そう言い得るためには、暗闇に譬えられる体験の意味を知ることが必要です。救いとは暗闇の中にも意味があることを示す働きです。イエスはその意味を照らし出すべく「暗闇の中で輝く」光なのだとこの福音書は告げるのです。

◆ 暗闇にも意味がある、そのようなことをどうして言えるのか。ヨハネはこう語ります。「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。」 「宿る」とは「テントを張る」「天幕に住む」という意味です。まことの光としてのイエスの到来は、神が人間たちの間にテントを張る、というイメージなのだとヨハネは記します。つまり神は、その権威を振りかざして最上の部屋や広間の明け渡しを人間に要求し、もてなしを求めるような形ではなく、人々の暮らしの間にそっと宿を取る、そのようなイメージで宿るのだということです。人の暮らしは、穏やかで和らいでいる時もありますが、むしろ思いがけない穴が開いて、そこから冷たいすきま風が吹くことの方が多くあります。病気であったり、大切な人の死であったり、他人とのもめごと、事業の失敗であったり、大きな災害に見舞われ、生活の基盤を根こそぎ奪われてしまうこともあります。人間のそのような暮らしの間に、神はテントをそっと張って共におられる。共にいて人の痛み、悲しみ、苦しみ、辛さ、嘆きをその人だけのものにしないで一緒に味わい、担っていて下さるのです。

◆ 人は暗闇が一気に消し去られ、光に包まれる、そのようなイメージで救いを求めます。ですから神が示したイエスという光に納得しませんでした。十字架にかけられる救い主など受け入れられませんでした。それゆえヨハネは「暗闇は光を理解しなかった」と語ったのです。しかし人の世から、私たちの暮らしの中から暗闇がなくなることはありません。その現実に向き合っていくとき「光は暗闇の中で輝いている」という言葉の意味深さを私たちは味わい知るのです。

◆ マーティン・ルーサー・キング牧師は1968年4月4日に、反対者に撃たれ、39歳の生涯を閉じました。この死の前日、メンフィスの教会で説教を行いました。「山の頂きに登って来た」という説教です。モーセがイスラエルの民をひきいて40年の荒野の旅をして、約束の地カナンに至ったという生涯を思いつつ、語りました。心に響く印象深い説教です。「もし、神が、お前の歴史の中で、どの時代に生きたいと思うか、と問われたら、わたしはどう答えるだろうか」と、キング牧師は語り始めます。そして、モーセによる出エジプトの行われた時代、ルネッサンスの華やかな時代、アメリカ大陸発見と開拓者の時代、リンカーン大統領による奴隷解放の時代、そのいずれも生き甲斐のある、わたしにとって魅力ある時代であると言えるでしょう。しかし、わたしは最終的には「今とここ」を選ぶでしょう。それは決して良い時代ではない、黒人解放運動の苦しい戦いを戦っているときであり、内部の対立抗争に悩まされているときでもある。しかし、わたしは「今」「ここ」で働くように神から遣わされているのだから、わたしは心をこめて、精一杯、今、このときに仕えて生きたいと語りました。このときキング牧師が身を置いていた現実は「暗闇」のままだったはずです。でもその今をわたしは選ぶと語るのです。それは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネが語った神の臨在、インマヌエルの神、神は我らと共にいてくださる、その事実が、マーティン・ルーサー・キングという一人の人を支えていたからだと思います。そしてそれは今を生きている私たち一人一人にとっても信仰の事実なのです。神のひとり子の誕生の出来事を深く味わい、喜び、クリスマス礼拝を皆さんとご一緒に守ることができていることを私は今、心から感謝しています。

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