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2014日10月19日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨 2014.10.19  マタイによる福音書5:1-12 「幸いと語る理由」           

◆ イエスは30歳を過ぎた頃、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで伝道を始めました。伝道活動をはじめてからまだそんなに時を経ていない頃に、イエスは山に登り、そこで弟子たちに多くの重要なことを語りました。その内容がマタイ福音書の5章から7章の終わりまでにわたって記されています。その中で、とくに最初の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉は有名です。ただこの言葉はもともとこの福音書を書いたマタイが言おうとしたこととはかけ離れた意味合いで読まれてきたのではないかと思います。「心の貧しい人」という言い方がそもそも誤解を招きやすい表現であることは事実です。特に説明をしてもらわない限り誰もがこの箇所を「精神的な貧しさ」の意味で読みます。「心の豊かさ」の反対にある「心の貧しさ」をよしとしていると受けとめます。

◆ 「心」と訳されているのは、「プニューマ」という言葉です。プニューマという言葉は、ユダヤ人が、人間を言い表すときに用いてきた言い方のひとつで、「霊」と訳されています。今日の箇所で「心」と訳されているのも「プニューマ」です。神と対話できる存在として人間をとらえるときに用いられます。ですから「心の」と訳されている「プニューマ」は、単に精神的な意味での心ということではなくて、もっと深いところから人間をとらえて表現していく言葉なのです。言うならば「人間丸ごと」ということを意味するのです。また「貧しい人々」とあるこの貧しさは「物乞いをしなければならないほどの貧しさ」を意味しています。したがって「心の貧しい人々」というのは、神と語り合うことができる存在、神の働き、神の意志を受けとめ、神が語りかける言葉を聞くことができる存在としての人間が、貧しく小さくされた状態に置かれてしまっていることを表しているということになります。そしてイエスはそのような人たちを幸いであると言ったというのです。

◆ しかし、そうだとすると、私たちは考え込まされることになります。なぜ物乞いをしなければならないような人、心底貧しく小さな状態に置かれていることが幸いなのか、ということです。「幸いである」と訳されている言葉は「マカリオイ」と言います。この言葉は旧約聖書の詩編などに多く出てくる「アシュレー」という言葉に相当します。その意味は「「まっすぐに進みなさい」「今いる所から行動を起こしても大丈夫」「そのままつき進んでいいですよ」「祝福されていますよ」ということであり、動き出すことを促す、励ましの言葉なのです。今の貧しい状態にそのままいなさい、貧しいことは幸いなことなのですという現状肯定の意味ではなくて、むしろ現状を乗り越えて将来を切り開く力を神はあなたに与えて下さるのだという励ましの言葉です。前に向かう積極的な意味合いが宿っているのです。小さく貧くされている人たちに神は力を添えていて支えて下さるのだから、そのまま、いま望んでいる、願っていることを実現するために行動を起こしていいのですよということなのです。カトリックの司祭で大阪の釜ケ先で活動しておられる本田哲郎さんは「心の貧しい人々は、幸いである」という箇所を次のように訳し直しておられます。「心底貧しい人は、神からの力がある。天の国はその人のものである。」

◆ 今日の箇所で語られている幸いの中でもう一つ触れておきたいとことがあります。4節「悲しむ人々は、幸いである」という箇所です。この言い回しもまた戸惑いを覚えさせます。この世の中に悲しんでいる人はたくさんいます。働いても働いても暮らしの目処が立たなくて悲しんでいる人がおられます。災害や事故で大切な人を失った悲しみにただただ耐えている方もおられます。悲しんでさえいれば幸せだと言うことではないはずです。「悲しんでいる」と訳されている言葉(ペンスーンテス)は、人の死を悼むお悔やみの悲しみを指す言葉です。たとえばイエスの死後、その死を悼む弟子たちに、イエスが復活したということが知らされた時の様子を記した箇所にこう記されています。「マリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことをしらせた」(マルコ16:10)。愛する者の死に出会って悲しんでいる、しかしその時に神の力があるのだという、それが「悲しむ人々は、幸いである」ということの意味なのです。

◆ 神は一緒に歩いてくださる方です。それは私たちが生まれたときから、ずっと年を重ねて老いの時を迎えてもいつも離れることはありません。聖書の神は私たちにとってどのような方なのか、そのことを語るキーワードは「一緒に」です。「我々と共におられる神」のことをマタイは、5章41節でイエスの教えのひとつとして、こう記しています。「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 1ミリオンは約1.5キロです。同じ1ミリオンであっても、人は年を重ねて行くと、その距離は2ミリオン、あるいは3ミリオン行くという長さとして感じるようになるのではないかと思います。ご高齢のみなさんが毎週の礼拝に出席して下さる、それは同じ距離ではあるけれども、若いとき、あるいは壮年のときと比べれば、2倍も3倍も長い距離を、時間をかけて行く、そのようにお感じになりながら礼拝に来て下さっているのではないかと思います。人の歩みは年を重ねると、もどかしさを覚えるほどゆっくりとした歩みになります。それは多くの人生の荷を背負っておられたからだと思うのです。70年、80年を生きてきたら、それだけ人生のさまざまな荷をたくさん背負って歩んでこられたということになります。

◆ イエスは十字架を背負われました。自ら架けられる十字架を背負い、人の罪の重さを背負われました。ゴルゴタの丘に十字架を背負って歩んだイエスの歩みは重く遅かったはずです。このときイエスが味わった思いを、人は年を重ねて人生の荷を多く背負って歩む時になってしみじみと心に染み込むように分かっていくのではないか。年を重ねて今を生きる人は、人間の罪の現実を神に執り成すために背負ったイエスへの思いを深めることを促す証し人なのだと思うのです。シューベルトが「冬の旅」という作品の中にこんな言葉を記しました。「あなたは、わたしの歌に合わせて、そのリュートを弾いてくれますか。」 シューベルトは31歳で亡くなりましたが、身体の弱りを覚えたときなのでしょうか、楽器に合わせて歌うことができず、ゆっくりうたうわたしの歌に合わせてリュートを弾いてほしいと願ったのではないかと思いました。認知症になった母と、前任地大津で一生に暮らし始めたとき、わたしは母の1ミリオンをわたし自身の1ミリオンと同じ尺度で測ってしまって苛立っていました。わたしにとっての1ミリオンは他の誰にとっても1ミリオンではないのだと気づきたいと思っています。あるときわたしと一緒に1ミリオン行ってくれた隣人は、2倍3倍の距離を行くしんどさを感じながら歩んでくれていた、その思い、その心遣い、その愛に支えられて今の自分があるのだと思うのです。そのような気づきを得て生きること、与えられて歩むことをイエスは「幸いだ」と語ったのです。

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