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2014年8月24日(日)の説教概要 [説教要旨]


先週の説教要旨 2014年8月24日  マルコによる福音書10:13-16 「神の国からのたより」 

◆ 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。「決して」とは厳しい言葉です。絶対に「神の国に入れない」すなわち神の働きが本当には分からないままだというのですから、今日の箇所は「ああそうですか」と通り過ぎておしまいというわけにはいかないのです。「子供のように」とはどういうことなのか、そこを解き明かさなければなりません。

◆ 児童文学者であった灰谷健次郎さんは次のような言葉を残しました。「人間を考えるのが、もの書きの仕事です。その人間の中でも、一番おもしろいのが子供です。子供が一番神秘的で、奥深いと思います。私は毎日、海を見て暮らしていますが、海は一日として同じ日がありません。だから見飽きるということがないのです。子供も同じです。子供は一日いちにち変わっていきます。それを見たり考えたりすることは、とても楽しいことだし、何よりもそうすることによって自分自身が変わるという恩恵を受けられるのです。」 「子供は一日いちにち変わっていく」その柔らかさ、自分が出会い体験するものを受けとめる自由さと奥深さ、それが「子供のように」とイエスが語ったことの中身なのではないか。

◆ 今日の箇所には、そのことをイエスが語ることになった一つの事件が記されています。この事件が起きたのは、その年の過越の祭りが近づいていたとき、ユダヤ暦のニサンの月、今の3月か4月の頃、そして場所は、9章33節に「一行はカファルナウムに来た」とあり、10章1節に「イエスはそこを去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とありますから、聖書巻末のパレスチナの地図でいえばガリラヤ湖から死海へと流れ下るヨルダン川の右岸に位置するペレア地方のどこかということになります。群衆が集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられたと10章1節に記されています。そこへ幾人かの人たちが子供たちを連れてイエスの元にやってきます。男親もいたかも知れません。しかしおそらく多くは母親たちであったのではないか。当時、著名なラビ、律法の教師がいると、そのラビに触れてもらって祝福を受ける習慣がありました。母親たちはおそらく素朴に、自分の子供への祝福を願ってイエスの所にやってきたのだと思います。

◆ しかし彼女たちは、弟子たちから突き放すような対応をされます。「弟子たちはこの人々を叱った」。「叱った」と訳されている言葉は8:32でイエスが第1回目の受難予告をしたときにペトロが「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と訳されている箇所で「いさめる」と訳されている言葉と同じです。(エピティマオー)。ペトロがイエスをいさめたのはイエスの十字架への道行きを遮るため、そんなことはおよしなさいと押しとどめるためでした。今日の箇所では弟子たちが女性や子供がイエスに会おうとする、接触しようとすることを遮るために叱ったのです。女や子供がガヤガヤとやってきて、私たちの先生イエスにまとわりついて困る、だからそれを遮ったというのです。

◆ マルコで福音書は「しかし、イエスはこれを見て憤った」と記しています。「憤った」と訳されている言葉は「激昂する」「激怒する」という意味です。ですからイエスは実に激しい怒りを露わにして怒鳴ったのです。私たちは机を激しくたたいて怒りをあらわにするという表現をしますが、この時もし机でもあったとしたら、おそらくイエスがこぶしを振り上げて机を激しくたたく音が聞こえたであろう、そんな場面です。子供をイエスのもとに連れてこようとした人々を弟子たちが叱ったことに対して激しく怒るイエス。それもたとえてみれば机をたたいて怒りを露わにするという激しさをイエスは示しました。ということはそれほどに重大なことがこの場面にはあるということです。

◆ 子供を巡る物語をご紹介します。
 神戸市東灘区にあるYKK六甲株式会社の社長を務める江口敬一さんと次男の物語です。江口さんはアメリカ西海岸にあるYKKのシアトル支社に勤務していました。シアトル市内の病院で、次男・裕介さんが生まれました。しばらくして医師から裕介君の思いがけない診断結果が知らされました。裕介さんは、染色体検査の結果、ダウン症であること、そして知的障がいもある、という内容でした。江口さん夫妻は大変なショックを受け、すぐには言葉が出ませんでした。体中の力が抜けた感じでした。しかし、この医師は医学的な診断結果の説明をしただけで会話を終わりにはしませんでした。倒れそうな江口さん夫妻の心を支えて、こう続けたのです。「あなた方は障がいをもったこどもを立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」と。江口さん夫妻はこの言葉で我に返りました。この子を自分たちが育てなくて、誰が育てられようか。この子の親として選ばれたからには、愛情をこめて育てなければならない。医師が言ってくれたように、自分たちには力があるはずだ。可愛いこの子のためなら、できないことはない。江口さんご夫妻は、医師の言葉によって勇気づけられ、思い直すことが出来たのです。裕介さんは養護学校高等部を卒業した後、ホームヘルパー2級の資格を取得し、現在は東大阪市内の高齢者デイ・サービス・センター「アンデスのトマト」に就職し働いておられます。

◆ イエスは子どもが私のところにくることを妨げてはならないと語りました。わたしたちはさまざまな命の状況、命の形を持ってこの世に神が送り出される存在と出会っていきます。しかしながら時にその違いをもった命に対して、その存在をそのまま自らの所に抱きとめるのではなくて、受けとめるのではなくて、招くのではなくて、拒絶する、絶望する、あきらめるということがあるのではないでしょうか。私たちの意識の中に、思いの中に、子どもがそのままの姿でこちらに来ることを拒否する、受け止めることができない、どこかで子どもの状況を否定しようとする思いが働くことがあるのではないでしょうか。江口さんの次男裕介さんをこの世に迎えるときに立ち会った医師は両親の心に向かって語りかけました。この医師の言葉は、「あなたがたは子どもがわたしのもとに来るのを妨げてはならない」というイエスの言葉に重なって行くのを感じるのです。「あなた方には障がいをもったこの子を育てる資格と力があるのです。神様はそのことを知った上で、あなた方をこの子の親として選んだのです」という医師の言葉は心にしみる言葉です。わたしたちはそれぞれ与えられている出会いを、その出会いは神様があなたにはこのことを担っていくことが出来るということを知った上で、私たちに与えて下さっているのだということを忘れずに、向き合い、受けとめる者でありたいと思います。「こどもをわたしのもとに来るままにさせておきなさい。妨げてはならない。」それは神がその子を選びそして送って下さっているからだというイエスの言葉に思いを重ねたいと思います。

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