SSブログ

2014年2月9日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第7主日礼拝  2014.2.9
説教:「神の国だより」 望月修治
聖書:マルコによる福音書4章21~34節

◆ 集会や結婚式のスピーチ、あるいは講演のときに最初の言葉をどのように語り出すか、それを決めるのは案外と時間がかかるものです。マルコによる福音書は、イエスが伝道活動を開始したとき最初に語った言葉をこう記しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「神の国」とは、神の支配、神の行動、神の働きを表す言葉です。イエスが語った「神の国」とは何であったのか。

◆ 今日の箇所で神の国が「ともし火」にたとえられています。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか、燭台の上に置くためではないか」という譬えです。「ともし火を持って来る」とありますが、原文では「ともし火が来る」となっています。神の国は向こうからやって来る、近づいてくるのだということです。

◆ ある人がこのような神の働き方を、人間の死にたとえて説明しています。死は必ずやってきます。どんなに医学が進歩しても、死をなくすことは出来ません。それは必ずやってきます。イエスが語った「神の国」のやって来方もそれと同じなのです。それは「要りません」と言っても、絶対にやってくるのです。誰にでも死が訪れるように神の国も誰にでも訪れる。しかしその中身は死とは正反対です。神の国、神の働きがもたらすのは死ではなく命です。その命は「要りません」と言っても与えられるのです。その場合、死の場合と同じように人間の側の一切の条件が全く意味を持たなくなります。

◆ そのようにもたらされる神の国、神の働きに直面してわたしたちに出来ることは、それを受け入れるか受け入れないかの態度を決めることだけです。だからイエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言うのです。それは人間の側が聞こうとしないかぎり与えられることがないからです。神の国は近づいている。向こうからやってきている。だから悔い改めて、方向を転じて福音を受け入れてほしいのだとイエスは語りました。

◆ マタイ福音書7章でイエスはこの人間のあり様を「門を通る者」にたとえています。人間はいつも門を通ります。家を出るときに門を通ります。学校に入学するときには入学試験という門を通ります。会社にはいるときには入社試験という門を通ります。新年を迎えるとき初詣に出かけたり、何か決意を新たにしたりそれぞれの門をくぐります。人間の暮らしは門を通ることで節目を刻みます。

◆ 「しかし」と、イエスは言います。「命に通じる門は狭い門」なのだと。この狭さは競争をあおる狭さではありません。命の門をくぐれる者の数は限定されているのだから、あなたも門をくぐれるようにしなさいという意味の狭さではありません。神の国は誰にも近づいている。ただしそれは隠されているのだから、求め、捜し、門をたたくことが必要だ。けれどもそれをする者は実に少ない、そういう意味で「命に通じる門は狭い」のだというのです。神が不平等なのではなくて、人間の側の主体性が問われているのです。 

◆ 神の国は人間の側の条件の違いなど何の関わりもなく、誰にでも与えられている。だから「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」のだとイエスは語ります。修行して立派になりなさい、精進して清くなりなさい、そうすれば与えられる、見つかる、開かれるというのではありません。今のあなたのままでいい。ただ求めようとしていなかったのなら求めてごらんなさいとイエスは促しています。

◆ そして実は「求めてみること」「探してみること」「門をたたいてみること」それが「悔い改める」ということなのです。「悔い改める」という言葉は原語ではメタノイアと言います。「ノイア」とは「思考」という意味であり、「メタ」とは「ひっくり返す」という意味です。つまりものの考え方の方向を180度ひっくり返すことが「メタノイア」なのです。そうであるならば、今まで求めなかった者が求める、探そうとしなかった者が探す、門をたたこうともしなかった者が門をたたくということは、それ自体がすでに人間の生きる姿勢、物の考え方全体の逆転を意味していますから、とりもなおさずそれが悔い改めるということなのです。

◆  イエスは神の国を描き続けた人でした。巧みな譬え話という絵の具、画材を用いて神の国を描き続けた人でした。イエスが私たちに求めたたった一つのことは「神の国を求めて生きること」であったと言ってよいのではないかと思っています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。